ホタテ漁船団の出漁
5. ホタテ漁船団の出漁

 大正4年当時の高島町(正林寺様所蔵の写真)

ニシン漁業の薄漁に加えて浅海魚介類もまた乱獲の結果、しだいに水揚高が減少した。その顕著な一例として、 境一郎氏(小樽水産高校教諭)の昭和49年(1974)「水産北海道」紙に掲載した「小樽ホタテ船団の石狩、千歳川下り」にも その経緯を見ることができる。 明治中期におけるホタテ漁業の中心地は、後志であり次は胆振であった。漁期は4月〜12月であるが、7、8月が最もよろしく、 鉄製八尺桁網(後半、詳細記述)と称する漁具を用い、磯船に1〜2人乗りで漁をする。生は産地で消費し、 他は丸干しにして内地(本州方面)や清国(現在の中国)に輸出して、かなりの収益を挙げていたもので、 高島郡前浜には余市あたりからも入港していた。

 小樽ホタテ船団の活躍範囲
 明治37年〜昭和16年(町史135ページより)

ところが明治末期までに、前浜のホタテはほとんど採りつくしてしまった。 そこで今度は他地区への遠征ということで、(※1)川崎船を用い、男4人、女2人くらい乗りの船団を組み、奥尻島、 更には初山別沖、宗谷沖、更に越えて北見地区まで出漁する。ところが始め入漁料を取って許可していた漁協も、あまりに 巧妙なこの漁法に漁獲高の減少を恐れ、資源保護を名目に入漁を拒否する。そこで高島のホタテ曳き組合長であった渡辺八十八氏 (渡辺玉蔵さんの父)らが、アヨロ(現在の虎杖浜)の組合長の許可を得て、日高方面に出漁することを計画した。 7月からの採捕許可に間に合うように、大正6年(1917)6月1日出港、祝津船団は15隻、高島船団は7隻の合計22隻である。

渡辺玉蔵さんの航海記録を列挙すると、
美国、余別に各1泊、泊では4泊(強風のため)、寿都、瀬棚、熊石にて各1泊、江差2泊(波高きため)、以下1泊2泊を重ねて6月24日、 勇払川着とある。浜厚真に着いた船団は、ニシン釜を出したり、乾燥小屋を作ったり、薪を購入したり、ロープの点検、 八尺(鉄製八尺桁網)の補修など万全の用意を整え、浜厚真を中心に3船団に分かれて投網した。
ところがホタテは大不漁である。沙流方面まで足を伸ばし4日間投網を続けたが漁場が見つからない。ついに22隻のうち14隻は、 ホタテ漁業を断念し、イカ釣り漁業をしながら小樽に帰る。
残るは8隻40名、思案の結果「樽前山の噴火によって火山灰が海面にふりそそぎ、海底が柔らかく、八尺の爪が短くホタテの頭だけ ならしてきたのではないか」と思い当たる。そこで(祝津船団の)原林さんは汽車で小樽に帰り、 (※2)一鉄鉄工所の一鉄岩太郎(一鉄巌氏の父)の開発した爪の長い八尺桁網を2台、客車便に積み、持ち帰る。 通称「紋別八尺」という5本爪のものである。すぐ試験曳きが行われた。
捕れた!
『手まき2丁を上げると1回に馬カゴで8杯もとれた。そのホタテは大きくて7寸くらいもある。私はもう夢中で紋別八尺を入れた。 今度は馬カゴで9杯である。』
その日の内に他の7隻も小樽から紋別八尺を持ち帰る。連日のホタテ豊漁で寝る時間もないほどであった。どの漁船も乾貝柱(60K入) 20箱近くとった。当時は1箱47円(昭和60年現在で50万円位か)で、若い衆には130円を支払った。10円出せば米1俵、味噌1樽、 しょう油1樽買ってもまだお釣のくる時代であった。
「切り上げの時、バケツで金を分けたことが夢のように思われる。」と原林さんはいう。

終漁日(9月30日)が近づくと、函館まわりは西風が強く、帆船では何日かかるか分からない。また生命の危険も大きいとして、 勇払川をさかのぼり、馬車で美々川と千歳川を結び、石狩川下りをして日本海に出て小樽に帰ることを計画する。 国道の橋を通過後は原形に復元する約束で取り外したり、船を水船にして橋下を通したり、美々から千歳川までの陸路2里半を、 馬車2台をつないで船1隻を運んだり、苦労は並々でなかった。
しかし、勇払川発10月1日、ウトナイ湖1泊、千歳1泊、江別1泊、石狩1泊、10月5日小樽着ということで往路25日間を帰路5日間に 短縮することが出来た。

しかし、小樽ホタテ船団の日高におけるホタテ漁業はこの年、1年で中止される。資源保護がその理由である。

以上、新高島町史134〜138ページより抜粋。
解説

(※1)川崎船

@小樽博物館様からの聞き取り調査による名前の由来
川崎船とは「かわさき衆」が乗る舟のことで、大きさ10メートル前後のものが多い。 五反の帆(ほ)、六丁の櫓(ろ)が一般的です。
なお、「かわさき衆」とは、河口に住み舟で漁を行う集団をさした。

A新高島町史136ページより要約
江戸時代に北陸から東北にかけ、タラ、ニシンなどの沖合漁業に使われた。 当時としては比較的大型の漁船で、明治時代には帆装も様式化、廻船(海上の運送)としても使用された。
明治中期に新潟県からの移住者により北海道に導入されたが、 帆、櫓、櫂で操る無動力船で、エンジン船の普及にともない姿を消していった。

(※2)一鉄(一鐡)

・北海道新聞2003年3月30日(日) 日曜版「北のモノがたり」より引用、要約。

先祖は、江戸初期以来の加賀前田家お抱えの刀鍛冶である。頑固一徹ぶりが殿様のお気に召し、『一鐡』の苗字を授かる。

北海道には明治38年(1905)、現16代目社長照夫さん(61歳)の祖父岩太郎さんの代に渡り、高島で鍛冶屋を開いた。 岩太郎さんは創意工夫の人だった。ホタテを獲る漁具「八尺」が大当たりし、ニシン漁の時代には薄くしなやかな、 鋼(はがね)のサバ割きがもてはやされ、出刃も草刈りがま等、何もかもが評判となり、村の鍛冶屋は『一鐡刃物工場』に成長した。

錨の改良・開発に縦横の才能を発揮したのが父祐司さん(87歳)だった。 コンブ漁に使う四ツ爪錨から、サケ定置網を沈める1個240kgものアンカー、養殖施設用の海底埋設式アンカーまで、数10種類を開発した。 定置網や養殖網を固定するのに、以前は土嚢が重りの役目をしていた。 それを祐司さんらは30年近く前から爪がついたアンカーの方が何倍も効力が違うと売り込み、普及させた。 新製品を発明しても「同業者はお互いに助け合わなければ」と決して新案特許を取らないできた。 江戸以来の職人気質は、ボロもうけできないことになっているようだ。

アンカーは、漁場の海の底の状態に応じた形状のものを作らねばならない。岩場か、泥土か砂か。潮流の速さはどうか。 爪がうまく海底に食い込むよう、爪とスド(幹)が作る角度も、爪の先端の厚みや幅も漁場に応じて一つ一つ作る。 先代社長、祐司さんは現役だったころ全道各地の漁協、漁家を一軒一軒訪ね歩いて話しを聞き、オーダーメードで生産した。 定置網を固定するため2枚の爪を装置した二又アンカーを開発する時は、石狩の大浜にブルドーザーを繰り出してけん引を繰り返し、 実験した。
(途中、高島から手宮へ工場を移す。)

今、製品は道内需要の7割を占め、東北、関東にも出荷する。 昭和28年(1953)『一鐡鉄工所』設立、平成8年(1996)分離独立して銭函にてアイゼンイッテツ設立。