高島町漁業の変遷
4. 高島町漁業の変遷

(1)鰊漁業
 大正年間ニシン建網漁業家
 (町史132ページより)
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 ニシン場で働く人々
(高島稲荷神社秘蔵写真)
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わが高島町の漁業も又、幾多の変遷を迎えた。明治43年(1910)当時、寿都支庁(磯谷、島牧、寿都、歌棄の4郡)、 小樽支庁(高島、忍路、余市、美国、積丹、古平、小樽の7郡)、岩内支庁(古宇、岩内、虻田の3郡)によって後志国を管轄していたが、 これを統合し、地域の中心にあたる倶知安に後志支庁を置いてこれを所管することになった。

沿岸漁業を基盤として発展した本道も、ようやく内陸開拓の実が挙った結果とも言えるであろう。

その証拠に明治24年(1891)、全国水産高のうち北海道は26.9%、水産製造業高は41.5%を占めて磯漁業中心とは言え、 その(内陸の産業)位置は高く、水産税は地方費の重要財源だったが、明治30年代の道内生産額は農業に追い抜かれ、 日露戦争後の40年代は工業にも抜かれていったのは開拓の進展にもとづく。

 ニシンの陸上げ
(高島稲荷神社秘蔵写真)
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 ニシンの陸上げ(町史264ページより)
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後記「高島に於ける漁業の変遷」にも見られるように、明治における当地方の主な漁獲物は、ニシン、サケ、マス、コンブであったが、 とりわけニシンの漁獲が大きかった。

それが明治20年代、綿条網の導入により大いに生産が向上したが、明治33年(1900)が頂点で、 以後は資源の衰退、沿岸漁業としての枠内にとどまったこと、仕込問屋資本の支配などの不利な条件と、魚群の局地的な来遊は年を追って 大きな変化を見せたことが最大の原因となって南からの薄漁、不漁の傾向が強まった。

 番屋(町史133ページより)
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 干場で働く人々(町史264ページより)
後志管内では、まず、寿都が大正9年(1920)から、 そして岩内、泊方面は大正12年(1923)皆無、同13年(1924)大漁、同14年(1925)皆無、同15年(1926)大漁と隔年のまことに 気まぐれなものがあり、昭和5年(1930)後志一帯皆無という最悪の事態となる。

それでも大正初期は比較的順調で、やはり春を待って支度を始める。大きな網元は漁場の数も多くて危険を分散できるし、不漁でも何とか しのげる。そのひとつの証拠として祝津青山別邸は、大正7年(1918)の建築である。しかし、資金を外から借りて網を建てた者は、 月2、3分という高利だから不漁となればお手上げである。

高島の漁師は、一発勝負のニシン漁のみ期待をかけることなく、改良川崎船によりカレイ、ホッケ、タラなどの沖合漁業を主体として 生計を維持した。

大正5年(1916)には村社の改築も行っている。



(2)大正時代の移民

なお大正年間における高島地区への移住者は、新潟県からは中村竹蔵・宮沢富蔵・久保田一郎・高橋岩次郎・酒井三次郎・山川クマノ・ 信田信作・高松しげる・平野フミ・平野広三郎・会田松太郎・小熊八屋松・小林福蔵・寒川久太郎・会田宝吉・松田藤吉・白根清治・ 須貝憲五郎・樋口金三郎・長谷川徳穏の各氏である。

富山から平山竹次郎・中沢久松の2氏、石川からは砂田セキ・横谷太重郎の両氏で、大小島忠次郎は東京からの来往である。 なお本間鶴吉氏・越中佐平氏は移住年月日は不詳となっているが、あるいは明治中期以降〜大正年間かと思われる。しかし、これらの 方々は全部漁業従事ということではなく、例えば大小島家は神官、平山家は農業、白根家は建設というように様々であった。

一方または青少年を主とする他地方移出も多く、明治中期以降に始まる産業革命は、職業の多様化をもたらし、各種技術習得のため、 進学あるいは見習の転出も多く、それぞれ土地で就職開業をした人々も多かった。

以上、新高島町史131〜134ページより抜粋。