小樽(市)の発展
2. 小樽(市)の発展

(1)小樽の雑穀景気の好況

ヨ−ロッパの穀倉地帯といわれるル−マニア、ハンガリ−、オランダなどが次々と戦火に見舞われたために、 北海道では、道産雑穀類の輸出が急激に伸びる。豆類、ハッカ、ジャガイモ、澱粉などが異常に高騰し、 いわゆる「成金」が各地の農村に続出する。

当時、道内で収穫された雑穀類は、ほとんどが小樽に集積され、豆類は輸出規格に合うように選別作業が行われる。 すべて女工による手作業で、大正6、7年(1917〜1918)にかけての最盛期には市内の堺町、南浜、北浜町(現色内1〜3丁目運河周辺)を 中心に20数軒の豆撰工場があり、そこで働く女工数は6000人以上と言われる。出来高による能率給であった。

こうした間に相場変動による利潤をねらう仲買人が活躍するのもまた商都の常で、堺町筋は澱粉、雑穀商の中心地となる。 「売った」「買った」を叫びながら、尻をはしょってゴム長をはいた威勢のよい仲買人たちが店から店へと飛び廻る。 そして儲かれば商店の若い衆までが肩で風を切って妙見町界隈の花柳街で札ビラを切る風景も見られたという。

こうした中で特記すべきは、当時のロンドン市場まで揺さぶったという大富豪、「小豆将軍」とも呼ばれた高橋直治(1856〜1926)である。 雑穀商の彼は、明治35年(1902)立憲政友会から小樽区に立候補し、北海道初の衆議院議員になった人である。 彼は第一次世界大戦が勃発すれば、ヨ−ロッパの雑穀類が不足し、価格は必ず値上がりすると予測して、 道内から13万俵という膨大な量の小豆を買い占め、有幌や朝里の倉庫に蓄え、値上がりを待った。 この時に価格は1俵6〜7円。予想は的中し、戦火が激しくなるにつれ、小樽からの輸出も急増し、値段も高騰、1俵17円の高値となる。 この時とばかり蓄えていた13万俵を売り出し、150万円にちかい巨利を得る。 以来、彼は小豆将軍といわれ、その名はロンドン市場だけでなく世界の市場関係者に知られたと言う。

(2)戦後の不況

第一次世界大戦中は、このように好景気であった日本も、大正7年(1918)に大戦が終わり、欧州諸国が復興してくると、 底の浅い日本資本はたちまち恐慌に襲われる。好況時代は労働者の数も急激に増え、賃金も高くなったが、物価もまた、どんどん上がり、 民衆の生活は苦しくなる。

こうした中で大正7年(1918)シベリア出兵(ロシア在住の日本居留民保護のため)に備えて大商人が米の買い占めや売り惜しみを 行ったので米の値段が急激に高くなり、一升30銭前後のものが40銭、50銭、60銭となり、富山県から始まる米騒動は全国に波及する。 こうした諸物価の高騰による労働運動や社会主義運動は、ロシア革命の影響もあって、大戦後、にわかに活発化する。

大正8年(1919)9月、小樽はしけ組合人夫千余名が賃金の5割増額を要求してのストライキは3日間で解決。 大正9年(1920)の上川神楽村御領地の小作争議、大正11年(1922)のニセコ有島農場の解放などがあった。 しかし、こうした間にも、商港小樽は延び続け、(※1)大正10年(1921)南防波堤竣工(小樽港第2期工事)、バス市内運行、銀行預金高全道1位となり (2位函館、3位札幌)、大正11年(1922)、人口12万を超えて市制実施。 大正12年(1923)、市営運河式埋立工事が完了して入港船舶1000万トンを越える最盛期を迎える。

以上、新高島町史127〜129ページより抜粋。


解説

(※1)南防波堤竣工(小樽港第2期工事)

  1. 小樽港第2期工事

  2. ▽小樽市の運河公園にて、伊藤長右衛門の胸像▽
    ― 胸像の履歴 ―
    ・昭和16年(1941)小樽公園に建設
    ・昭和19年(1944)供出(戦争の武器の材料に使用するため献納)
    ・昭和28年(1953)小樽公園に再建
    ・平成11年(1999)運河公園に移設

    伊藤長右衛門
    胸像

    伊藤長右衛門 略歴
     









  3. 参考・・・小樽港第1期工事

  4. ▽小樽市の運河公園にて、広井勇の胸像▽
    ― 胸像の履歴 ―
    ・昭和4年(1929)小樽公園に建設
    ・昭和19年(1944)供出(戦争の武器の材料に使用するため献納)
    ・昭和28年(1953)小樽公園に再建
    ・平成11年(1999)運河公園に移設

    広井勇 胸像

    広井勇 略歴