「インドネシアとタイの華人の違いについて」

はじめに

昨年1998年5月、インドネシア各地でスハルト政権退陣を求める運動がおきた。結局、スハルトは退陣に追い込まれた。その一連の動きの中で暴動が発生した。暴動では、主に華人(中国系インドネシア人)の商店などが標的にされた。国外に脱出を余儀なくされた華人も数多くいたと報道された。 私は長期の休みを利用してアジア各国をまわっている。そして、きまってタイを経由して第三国へ向かう。今までタイへは何度も足を運んでいる。よって、経済的にタイの華人(中国系タイ人)の存在を知ることができた。中華街(チャイナタウン)だけにとどまらない華人の規模。田舎へ行っても漢字をみないときがないほどである。 そのような中、今回のインドネシアの暴動での華人への迫害は、タイにおける華人の状況と比較すると、ある意味大きなショックであった。経済悪化・スハルト長期政権のひずみのハケ口が、全てではないにせよ、中国系の彼らに向かったことに私は大きな疑問を感じた。なぜタイのようにうまくやっていけないのか?国民性の問題なのか。宗教のせいなのか。それとも歴史によるのか…。よって、よく行くタイの華人の状況を手がかりにインドネシアの華人と現地住民、またタイのそれとを比較、検討していくこととする。 本題 最初に「華人」の定義から調べてみる。

 一般的に「華僑」の方がなじみ深いと思われる。高校での受験勉強の時に使った資料(武井、1994、187)は、かなり詳しい内容と言われているが華僑の説明はされていても、華人の説明は書かれていなかった。 幾つかの資料をあたってみるが、基本的には「@華僑=中国籍を持ちながら海外に住む中国人 A華人=現地国籍を持つ華僑二世と三世」更に厳密に言えば「B華僑=華人よりも後世の現地人」(白石、 1998、112)で一致していた。 インドネシアに関していえば、中国語はまったく理解できず、また自分の祖先がどこからきたのかも知らない、知りたいとも思わない国籍はもちろんインドネシア国籍で「自分はインドネシアに生まれ育ち、やがては死ぬと考えている」人々を「華人」という。一方、親の代に到来し家庭でも中国語、そして中国籍でも、インドネシア国籍でも中国本土、香港、シンガポールなどに親族がいる人々を「華僑」(トット)という。 以上から我々が一般的に使っている「華僑」は厳密には間違っていることになる。あくまでも海外に仮住まいしているのを華僑であって、それ以降の現地化した彼らは華人である。よって華人とはタイ系中国人、インドネシア人中国人......と全てを内包する大きな単位である。

さて、ここから詳しくインドネシアとタイの華人と現地住民との関わりとその差違を見ていく前に、なぜ東南アジアに、これほどまで多くの華人がいるのだろうか? 「世界に散らばる華人は3000万人以上いると言われる。その9割が東南アジアに集中している。」(大薗、1998、147)3000万人の9割となれば2700万人となる。この数はマレーシアの人口1923万人とシンガポールの287万人(『地理統計』、1996、18、古今書院)をたした数より多いことになる。 歴史的な経過を参考に述べていくことにする。 19世紀になって西欧列強が植民地を拡大していくと、良質な労働が絶対的に不足していった。列強は労働力をアフリカと中国に求めた。清朝政府は、海外に逃亡した反政府勢力と国内勢力との連結を絶つため、中国人の海外移住を禁止していた。国禁を犯してまで海外に生きようとする中国人はそう多いものでなかった。 ところが福建や江西、湖南、広東、広西などの南中国では、社会の混乱に自然災害が重なった。アヘン戦争以降、清朝の力も弱くなり、政府を無視した形で中国人労働者の移住がはじまる。 19世紀末になると、政府が正式に移住を禁止する。その時から、大量で組織的な海外移住がはじまり、華僑が誕生する。最初は「3K」の仕事が大半であるが、金を少しでありながら貯め、少商をはじめ西欧の商人に食い込みやがて突出した力を持つものがあらわれる。血縁、地縁を頼り、多くのものが集まり、商業集団となり華僑社会をつくりだしていった。

次に第二段階として自由主義陣営に属する彼らの国々とうってかわって、本国新生中国は社会主義陣営としての「中華人民共和国」となる。結果として、帰国しても差別を受けることになり中国との結びつきを失ってしまうことになる。華僑は現地に同化・融合し、華人となりはじめていった。 一時の結びつきを失った、現地化した状態から、70年代以降、中華人民共和国と彼らの国々が、国交を樹立し始め、法的に外国人として、祖国を訪問できるようになった。ちなみに、中国本土の人々は、この段階ではまだ自由に海外渡航できなかった。 簡単ではあるが、東南アジアにいる華人の歴史的経過を述べてきた。西欧列強の中国進出といい。植民地(あるいは半植民地)での労働力になっていったことといい、現在住国とは主義の異なる社会主義化、共産化してしまった本国といい彼らは歴史に振り回されてきたことがうかがえる。 最初にタイの華人の状況を見ていく。調度以前に読んだエッセーから紹介する。 タイには「十の収入があると中国人は八を使って二を貯金する。タイ人はうれしくなって十五を使ってしまう。」という諺があるそうである。「タイ人が十の収入にうかれて十五使う」間にしっかり「二の貯金」をするのが華人らしい。以下、抜粋すると......。 「金がないなあ」「いくら稼いでもローン首がまわらないよ」などとぶつぶつ言いながら暮らすタイ人が好きである。それを知っていながらタイ人は中国人を排斥しようは考えない。タイ人は愛すべき民族だと思う。バンコクで暮らすなら、そんなタイ人に紛れることである。そのほうがずっと楽しいし、日本人が忘れてしまった豊かさのようなものを味わうことができる。(下川.1998.166.) 著者は、主にタイを中心に世界各国を歩いている旅行作家である。学者の学術的アプローチとは異にするが、感覚的、経験的な話でありながら妙に説得力がある。

タイに華僑、華人のはじまりは17世紀以降にさかのぼる。王室の業務に関わり、これを契機に王室との関係を深くしていった。同時に政官財、軍部のタイ人との婚姻を通じてタイ社会への同化がはかられていった。 そもそもタイ人は「その3分の2は何らかの形で中国人の血が入っている人種」であり「1767年にトンブリー朝を開いたタークシンは、タイ王国でありながら父は中国人という混血(下川、1998,120)というから驚く話である。 タイと言えば王国(Kingdom)である。1989年の暴動も王の一言で鎮静化するくらい、タイは王国によってたばねられていると言っていい。その王の血に中国人の血が入っているということもう、タイ人と何ら変わらない同化が促進されるのもうなずける。 また「中国南部の雲南省がタイ族の移動の中継地とみられていることが、歴史的、人種的関係からみて、タイと中国の関係緊密化を促した重要な要因の一つ」(渡辺、今井、1994、209)という。実際、中国雲南省に行ったことがあるが、「水かけまつり」もタイ式の民族衣装の「サリー」もあり、そしてなによりタイ語通じる。以上から、タイの華人の同化は、しごく当然のように思われる。と、いうよりは、我々が想像する、タイ人とか、中国人とかの境目というか、壁がそれほど高くないのでないだろうか。 1932年以降、ピブン、ブリディ、タノム、チャチャイの四人の華人首相がでている。タイにおける「権力の四本柱」として、A(Aristocrat、貴族)B(Bureaucrat、官僚)C(Chinese、華人)、D(Defense、軍)があげられ、その中枢の一端を華人が担うかたちとなっている。タイには華系4代金融グループがある。タイの大手25財閥のうち23財閥が華人系である。潮州人系が13と最も多く、海南系、福建系が共に2つづつある。「華人系企業のバンコク株式市場の時価総額に占めるシェアは実に89%」という。(渡辺、今井、1994,210)

ここまでタイの華人進出を見てきたが、ここからは少し詳しくインドネシアの華人と現地住民との隔たり歴史的背景から探っていくこととする。 インドネシアへの華人の流入は17世紀初頭にはじまる。その後年々増加し、特に20世紀初頭に急激に増えた。当初はどこでもみられる肉体労働に従事した。次第に商業分野に進出するようになる。茶、砂糖、タバコ、コショウなど農産物の集荷物業、輸入販売業などを営み植民地資本とインドネシア民衆をつなぐ仲人商人として役割を果たしていった。 なかには砂糖、ゴムなどオランダ資本のプランテーション作物の物流に参画する華人も見られた。「また徴税請負人(一定領域内での政府の租税徴収を代行するもの)の指定を受けたり、独占権を得て賭博、阿片取引、両替商を営み植民地体制の一端を担う華人もいた。こうした歴史的な背景から、インドネシア人からは、華人は「政治権力と癒着して財を成す者」(渡辺、今井1994、246)としてみられた。第二次世界大戦前までには、卸売り、小商売、仲介業などの流通部門の大半を華人が支配するようになる。一方生産部門はオランダを中心に欧米企業が支配する上部構造が出来上がっていった。二度の大戦は、オランダ資本の活動を停滞させ、その間に華人が生産部門に入り込むきっかけとなった。結果として、精米、タバコ、製糖、綿布などの分野で華人が植民地資本に対抗する土着資本となっていった。

日本敗戦後の1945年8月17日、インドネシアは独立を宣言。すぐさま再植民地化を目指すオランダ軍と独立義勇軍との間で独立戦争が展開された。この時、華人は独立戦争に積極的に加わらなかったこともあって政治的にほとんど無視されていった。 もう既にインドネシアの華人はそれなりの利益を持っていたためなのか?ざわざ生死を賭ける必要がないと思ったのか?オランダから去られると不利益が生じるためだったのか?いずれにせよ、後に「独立戦争に消極的だった」「日和見的な態度だった」と、つけ込まれる理由を作ってしまったことは確かだ。先述の通り「権力と癒着して財を成すもの」と見られた華人はさらに「独立運動に参加しなかった。消極的だった」という見方が定着した。よって今日に至るまで華人の見られ方、扱われ方に通じてくると思われる。 「スカルの時代には民族主義が高揚し、華人はその攻撃の的となっていった」(渡辺、今井、1994、256)とある。考えてみれば「世界最大の群島国で1万3000余島もあり、民族数世界一(300〜350種族)。東南アジア最大の国家(面積、人口)」(大友、1998、106)のインドネシアを植民地から独立してまとめあげるにはかなりの力が必要だったといえる。比較的均質で、曲がりなりにも王国として独立を貫いたタイにおいて、華人の意味合いも、扱われ方も違ってくるのは、当然のことといえるかもしれない。 

1965年9月30日、スハルト将軍が実質的に権力を掌握、2年半後の1968年スハルトが第二代の大統領に就任した。スハルトは共産党を非合法化し、徹底的な「赤狩り」と非中国政策を実行したため国内の華人は弾圧の厳しい状況下のおかれた。中国語の使用も学校、新聞、看板を含め一切が禁止された。実際に今も禁止されているようで、国際宅配便の資料が偶然あったので見てみると、インドネシア国内に持込禁止品の中に「漢字で書かれた書籍等」とあった。 一方でスハルトは現実的な工業政策実行のため華人の資本を利用しようとした。華人側もインドネシア生き残って発展していくために、政府と強調しインドネシアの国家経済と歩む道を選択した。スハルトは1970年代に入ると輸入代替産業育成策を積極的に推進し、原油、天然ガスによって国内の製造業基幹を確立しようとした。

特に1970年代中頃は、石油ショックによって膨大な外貨収入を得、この政策はさらに加速されたていくことになる。この時期に華人産業の事業展開も活発化していった。事業参入の許可を得るためには政策に対して力のある政治、軍、権力者に近い企業が有利であった。華人の資金調達は、この時期、外国資本との合弁、華人企業同士の共同出資、海外華人からの資金協力などあらゆる手段がとられた。急速な開発政策は貧富の差を拡大させていくことと同時に、華人企業と日系企業といった外資と癒着した一握りの特権層や政府に対する批判が強くなっていった。1973年に反華人暴動が起き、1974年には田中角栄首相訪問時の反日、反政府暴動が起こる。この事件をきっかけに「プリブミ」「ノンプリブミ」がインドネシアの政治用語となって登場することになる。 「プリブミ」とはインドネシアにおける「現地住民」の意味で「ノンプリブミ」とは現地住民の反対のであるが、それはインド、アラブ系ではなく、専ら中国系住民(即ち華人)のことを意味する。マレーシアでは現地住民「プミプトラ」と「ノンブミプトラ」の人口が拮抗し、その中での経済、政治的問題が存在するが、インドネシアでの中国系の人口はたかだか3パーセントせあるといううのは注目すべきところである。 「プリブミ優遇政策」を政府は導入することになるが、その理由として「暴動の回避」があげられる。また石油ショック後の石油価格の上昇でプリブミ優遇政策を実行できたのも大きな理由である。しかし1982年以降、石油価格が下落しはじめる。

その2年後の1984年には「プリブミ」「ノンプリブミ」の用語が政府の公式文書から消えることになる。よってプリブミ、ノンプリブミの別なく民間部門の依存をせざるを得なくなる。そしてこれが1998年の華人を標的とした暴動の契機となる、政府との癒着が始まることとなる。ノンプリブミ(華人)は国家機構を掌握する軍、官僚、エリートにとってまさに理想的なパートナーとなった。「権力なきブルジョワジー」(白石、1992、156)にとどまりプリブミの羨望と軽蔑を増幅させていくこととなる。     

以上、インドネシアに華人の流入時から今までの状況を見てきた。タイの状況を比較すると、同化がなんとなく進んでしまったタイと違い、インドネシアはもっと複雑だと思った。独立前後の動きや、国を纏め上げていくための独裁者、それに群がり癒着した資本、また日本をはじめとする外資系企業……。様々な要因が、華人問題を更に「問題」としているようだ。 東南アジアの現地住民と華人との関係を表すパターンとして「タイ型、融合型社会(configured society)」「フィリピン型、混合型社会(mixed society)」「マレーシア、インドネシア型、複合社会(plural society)」(河部、1997、183)と分類していたが経験的にも、わかりやすいといえる。 おわりに ここまで自分のタイにおける現地体験を手がかりにインドネシアの華人とタイのそれの違いについてアプローチしてきた。なかなか資料が集まらず、東京の本屋へ行ったり、地元の図書館へ行ったりもした。あくまでも主題はインドネシアなので、そちらのほうへ重きを置こうとしたが若干タイのほうに比重がかかってしまった感がある。(と、言っても「東南アジア研究」の課題だから問題はないと思う。) 今回のレポートのおかげで、今まで「どこに行っても中国人」といいった漠然としたイメージから脱却することができたような気がする。今度行きたいと思っているビルマ(敢えて「ミャンマー」とは言わない。)にも華人が多いと聞くので機会があったらじっくり見てこようと思う。  

 

参考資料
大薗友和 『新アジアを読む地図』  
講談社  1998
下川裕治 『ホテルバンコクにようこそ』 双葉文庫 1998
河部利夫 『タイの心』         勁草書房 1997      
『タイ国理解のキーワード』  勁草書房 1992
白石陸著 『インドネシア国家と政治』  リブロポート 1992
寺泉春星 『アジアのことがわかる本』  かんき出版  1998
樋泉克夫 『華僑コネクション』     新潮選書  1993
渡辺利夫、今井理之編 『概説 華人経済』 有斐閣選書 1994

                                          

 

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