中越関係  〜対立は必然か?〜

はじめに

第1章 中国の支配とベトナムの抵抗の歴史

第1節 中国の千年間のベトナム支配
第2節 ベトナム王朝の変転と中国
第3節 最後の王朝

第2章 二つの戦争 
第1節 抗仏戦争(第一次インドシナ戦争) 
第2節 抗米戦争(第二次インドシナ戦争)   
     

第3章 表面化した対立
第1節 対ソ関係 
第2節 対ベトナム援助
第3節 在ベトナム華僑
第4節 国境地帯に混在する少数民族
第5節 南沙、西沙問題 

第4章 カンボジアをめぐって

第1節 カンボジア共産党
第2節 カンプチア民族統一戦線の結成
第3節 親中国と反ベトナムのポル・ポト政権
第4節 ヘン・サムリン政権の樹立


第5章 中越戦争とその後

第1節 中国軍の侵攻直前 
第2節 中国軍の侵攻と戦況
第3節 中国軍の撤退
第4節 国交正常化と現在


おわりに


追記 中越国境で銃撃戦 02年5月


注釈

参考文献一覧

 



はじめに

1999年3月から約1年間、中国の広西チワン自治区で中国語を学ぶ機会があった。広西チワン自治区は、中国にある五つの少数民族自治区の一つであり、ベトナムと国境を接している。通っていた学校(広西民族学院)がある広西の省都・南寧市から、ベトナムとの国境まで車で6時間の距離にある。このような地理的な近さもあって、学校にベトナム人留学生が多かった。

その時感じたのが、中国人とベトナム人の間の「溝」だった。勿論、留学しているベトナム人や、ベトナム語を専攻しているような中国人は別としても、ごく一般の中国人のベトナムに対する印象は良くないように思われた。

ベトナムへ旅行するという私に「なんで、あんな何もないところにわざわざ行くのだ?」と怪訝そうな顔で言われたことがあった。広東語とベトナム語は似ていると私が言うと、中国人は「ベトナム語と一緒にしないでくれ!」と少し怒った調子で言った。 断片的には、中国とベトナムが戦争をしたことは知っていたし、かつては、同じ社会主義国の兄弟として協力関係にあったことも知っていた。しかし、お互いが反目するような状態を目の当たりにして、どうしてこうなってしまったのか理解できなかった

「ベトナム人は恩知らずだ。」「ベトナムはもともと中国のものだった。」と中国人は言う。これは一体どういうことを意味するのか?歴史的に中越関係とはどのような道筋を辿ったのか?そのような疑問から出発して、中越関係を見ていきたいと思う。 第1章では、中国の支配とベトナムの抵抗の歴史を時代に沿って見ていくことにする。

第2章では、ベトナムが直面した二つの戦争(第一次、第二次インドシナ戦争)を通して、両国の関係のすれ違いから対立へ発展する過程を見ていく。第3章では、友好関係から対立へと向かう諸要因について、具体的に書いていく。第4章では、カンボジアをめぐっての両国の激しい対立を、第5章では、第4章をうけて両国が激突した中越戦争について見ていき、最後の1節では、国交が正常化されたここ10年の動きについて見ていくことにする。

 また、中国留学の前後の1998年と2000年に、ベトナムとカンボジアを訪ねたので、そのときの写真も若干おり混ぜていくことにする。

 


中国全図
ベトナムと接している国境線は、雲南省と広西チワン自治区と接している。 中国全体から見ると、ベトナムとの国境線はほんの僅かに過ぎない。 朱建栄著 『中国2020年への道』( NHKブックス 1998年 )より

ベトナム全図
中国とは、ベトナムの北部と接し、ハノイから極めて近い。 南寧〜友諠関間、友諠関〜ハノイ間はほぼ同じ距離である。 坪井善明『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』(岩波新書 1994年)より


 

第1章 中国の支配とベトナムの抵抗の歴史

 

第1節 中国の千年間のベトナム支配

紀元前221年、中国では始皇帝の秦が成立し、50万の軍勢で長江の南(百越)を攻 略した。(紀元前214年)。 始皇帝の死後、秦の臣下が南海、桂林、象郡を統合して、百越より更に南の果てを意味する南越国(ベトナム語の発音で、南越は「ナム・ヴィエト」)を建国し、広州に都を置いた。その後、紀元前179年頃、南越国は、現在のベトナムにあたる甌駱国を統治した。秦の次に中国を統一した漢は南越国を攻め滅ぼし、南越を交趾、九真、日南の三郡に分割した。漢は官吏を大量に送り込み、地元住民から激しい搾取を行った。

初期においては、ベトナム北部と中国の華南の民族は、単一国家を形成し、その後、中華世界に組み込まれていった。これ以後、939年の呉権の独立達成までの千年間、ベトナムは中国に支配されることになる(ベトナムの北属時代)。その中でたびたび反乱が起きた。以下主なものを見ていく。

ハイ・バ・チュン(徴姉妹)の反乱  
40年、漢の光武帝の時代、夫を殺された26歳のチュン・チャクは、妹のチュン・ニと共に漢の圧制に耐えかね蜂起する。またたく間に近隣の三郡を巻き込む闘争に発展した。漢は、3万の派遣軍を送り込み交戦し、鎮圧した。敗れた姉妹は、惨殺された。現在でもその抵抗精神は称えられ、ベトナムの守護神として崇拝されている。ハノイには姉妹を祭ったハイ・バ・チュン寺がる。(かつて周恩来も参拝した。)

李賁(リーボン)の反乱   
中国・梁の支配に対して李賁が鋒起し、交州刺使は中国に逃げ帰った。中国に
勝利した李賁は、ベトナム史上初めて帝号を称して李南帝(リーナムデ)となった。梁は大軍をもってベトナムに攻め込み再度、支配した。李賁に全権を委譲された趙光復は、550年、梁に大乱が勃発し勢力が弱くなったのを機に、総攻撃を行い万春国を建国したが、鎮圧される。

梅叔鴬(マイ・トゥック・ロアン)の反乱    
唐の時代、梅叔鴬(マイ・トゥック・ロアン)は他の者と共に楊貴妃のために茘枝(ライチ)を運ぶ任務で長安へ向かった。過酷な任務の中、一行の老人が喉が渇いて茘枝を食べてようとしたところ、唐の兵士が老人を殴りつけた。 これを見た梅叔鴬はこの兵士を逆に殴りつけ、兵士を追い散らした。これを機に、梅叔鴬は全国に号令し、反乱軍を組織し宋平 (現ハノイ)を占拠したが、唐は10万の援軍を送り、鋒起した軍は崩壊 した。

曲承祐(クック・トゥア・ヅ)の抵抗    
唐が衰退し、安南都護府の機能が麻痺した。曲承祐(クック・トゥア・ヅ)は905年、宋平(ハノイ)に攻め入り、自ら節度使と称した。 曲承祐は唐朝の臣下との立場を崩さなかったので、衰退して力のない唐は曲承祐を認めざるを得なかった。曲承祐が実質上は、ベトナムの独立を保ちながら、表面的には中国に服する方策を取った最初の人とされる。

唐が滅ぶと、広州に成立した地方政権の南漢国がベトナムを支配した。938年に呉権が紅河デルタの入りバクダン(白藤)江で、川底に沢山の杭を打ち込んで、南漢の敵艦を撃破し(白藤江の戦い)、939年、千年にも及ぶ長い中国からの支配からベトナムの独立を達成し、ハノイ郊外の古螺(コーロア)を都に呉朝を定め、ベトナムの基礎を築いた。

 

第2節 ベトナム王朝の変転と中国

その後、ベトナムの王朝は11回もかわるが、その間も幾度となく中国の侵略を受けることになった

丁(ディン)朝(968年〜980年)  
呉朝の後、十二人の豪族の群雄割拠時代を経て、丁部領(ディン・ボ・リン)が丁朝(国名は大瞿越)をたてる。その後、帝位継承問題を巡り内紛が起きる。中国の宋朝はこれを好機として軍を中国・ベトナム国境に集めた。これを察知したベトナム側は、幼帝では戦えないとして、将軍の黎桓(レ・ホアイン)が推挙され帝位につき前黎朝が確立した。   

前黎(レー)朝(980年〜1009年)       
981年、宋は陸と海からベトナムを攻撃した。そして支稜 (チラン)の戦いで前黎朝は、宋を撃退した。 中国に大勝したベトナムは、捕虜にした将軍達を中国に送り返し、中国の面子を潰さないようにし、その後中国に朝貢し、実質的独立を確保した。その後、前黎朝は、臣下が推挙され、その後のベトナム発展の基盤を確立する李朝を打ち立てた。

李(リー)朝(1010年〜1225年)  
李朝は経済の中心地であり、地理的にも発展の可能性のある大羅(現在のハノイ)に遷都し、昇龍(タンロン)と 改称した。この頃になると、「中国=『北国』に対して、ヴェトナムでは、『南国』であり、中国は文化の面で対等であり、政治的には独自の領域で、歴史と王朝をもつ主体である」(注1)という中国に対抗するための、独特な「南国意識」が形成された。また、1075年に科挙制度を導入し、大乗仏教を奨励した。  
 

中国の宋の神宗は、財政危機に瀕していた財政を立て直すため、王安石の進言に基づいて、ベトナムを支配下置くことを決めた。これを察知したベトナムは機先を制して1075年に欽州(広西)、 廉州(広東)、南寧(広西)に攻め入った。ベトナムが歴史上初めて中国に進攻した。中国の皇帝はベトナム軍が侵攻に対して、8万の軍で反攻し、ハノイ近郊まで進軍した。しかし、戦況は膠着状態 となり、ベトナム側の申し出を認め中国国境に接する数州を割譲させ撤退した。一方、中国の宋は北方の金に攻められ、1126年には杭州に遷都して南宋となる。 李朝も1200年代初めから各地に起こった内乱により衰退し、陳氏に権力を奪われた。

陳朝(チャン)(1225年〜1400年)
陳朝もハノイである昇龍(タンロン)に都を定めた。この陳朝に元の50万の蒙古軍が、1257年と1284年と2回攻撃した。1284年、元は50万の兵でベトナムに攻め入った。当 時、ベトナムの兵力は20万で形勢が悪く、初戦は敗退の連続だったが、ゲリラ戦を展開し、元軍を打ち破った(交戦期間は、1284 年12月〜1285年6月)。この侵攻に失敗した世祖フビライは、三回目の日本侵攻計画を取りやめ、舟をベトナム向けに改造、水陸から大軍を派遣した。ハノイを占領したが、ベトナムは、元の食糧船隊を破り補給を絶ち、全軍撤退を余儀なくされた元の水軍の帰途に襲撃をかけた。予め河の中に打っておいた杭のために、元船は壊滅的な打撃をうけ敗退した。1284年と1287年の元の侵攻を撃退した軍の総帥・陳国峻(チャン・フ・ダオ)は今でも国民の英雄で各地に銅像がある。
 

陳朝は、民政でも実績を上げ、中国の科挙制度を充実させ、戸籍、税制、兵制を整備し、歴史編纂なども行われた。漢字をもとに作られた民族文字のチューノムが流行し文化的にも高揚した。しかし、元の撃退以降、国家が疲弊し山岳民族の反乱と農民の反乱にあい陳朝は滅亡し、胡(ホー)朝 (国名は大虞)が興る。(黎季犁は胡季犁と改称)。

胡(ホー)朝(1400〜1407年)  
明の永楽帝は南方に向かって勢力の拡張を狙い、胡朝が陳朝を纂奪したのを口実にベトナムに攻め入り胡朝を滅亡させた。その後、ベトナムを直接支配し、固有の言語や風俗などを排斥し、中国式にし同化政策を推し進めた。黎利(レロイ)が蜂起し。明を破って、後黎朝 (国名は大越)を建てた。

後黎朝(1428年〜1528年)  黎利(レーロイ)は黎太祖(レタイト)と称し、ハノイを東京(ドンキン)と改称した。行政、軍事の制度を充実させ農業を奨励したが、1500年代に入った頃より後黎朝は、衰退に向かう。 権臣間の抗争で、軍の指揮権であった莫登庸(マック・ダン・ズン)が帝位を奪い、即位したため、黎利以来100年で黎朝は滅亡する。

莫(マック)朝(1527〜1592年)  
莫朝が成立したが、他方、莫登庸に抗し黎朝の復活を計る旧臣勢力のリーダーは阮淦(グエン・キム)は、ラオスとベトナムの国境地帯に逃れ、明の朝廷に莫登庸の帝位纂奪を訴えたが、明は莫登庸を承認した。

再興黎朝(1592年〜1786年) 
中国の明朝が後金国との抗争で精力を注ぎ、また1644年に明を滅ぼした清も国家の基盤作りに忙殺され、他国を侵略する余裕がなかった。そのため、ベトナムは中国からの攻撃がない平穏な時代となったが、国内は、内部抗争が勃発する。 黎朝は再興されたものの北の鄭(チン)氏と南の阮(グエン)氏の南北割拠時代となり以後約200年の間対立することになる。帝は北にあったが、鄭氏は黎朝の帝を無力化させ、全権を掌握することになった。  南の阮氏には1679年、明の遣臣が、清朝に服従することを嫌い、3000名を50隻の船 に乗せ、ベトナムへの移住を求めてきた。阮氏は真臘(カンボジア)の地を開拓させるために入植させ、徐々にベトナム人を移住させて南部の進出、経営に乗り出した。

 

第3節 最後の王朝

西山(タイソン)党(1786年〜1802年)
困窮、疲幣した南北の民衆の不満が鬱積し、南の阮氏の領内の西山(タイソン)で阮文岳、阮文呂、阮文恵の三兄弟が反乱を起こした。南の阮氏を滅ぼし、その後、北の鄭氏をも滅亡させ、西山(タイソン)党が成立する。黎愍宗が清朝に救援を求め、それに乗じて1788年、清の乾隆帝は20万の大軍でベトナム出兵を命じた。ハノイは清軍に占領された。 阮恵の指揮するベトナム軍は、旧正月の酒に酔った清軍を攻撃した。清軍は反撃しきれず、大混乱に陥り撃破された。

清軍を撃退した西山党がベトナムを支配した。そのとき、漢字を廃止し、チューノムをベトナムの正式文字とする政策を実施し、文学的に大きな影響を与えた。しかし、この西山党も長続きはせず、逃げていた南の阮氏の阮映はシャム(タイ)やフランスの司教の助力を得て、大砲と海軍力で圧倒し西山党を圧倒しベトナムの統一を回復し、ベトナム最後の王朝・阮朝が成立した。

阮(グエン)朝(1802年〜1945年)
阮朝は、「自国のことを『中国』(チユンコク)呼び、世界の中心に位置すると称して、自国を中国と兄弟であり対等の国家と見なしていた。そして中国を『北朝』、自国を『南朝』と呼んだ。」(注2)阮朝の君主は、中国の皇帝と同じ「皇帝」「天子」の称号を使い、中国以外の国(フランスやイギリス、タイなど)と自国民に対して「大南国大皇帝」と名乗った。「大南国大皇帝」の使節は、中国の皇帝の前では、「越南国王」の代理人として朝貢した。カンボジア、ラオス、ビルマなどが軍事援助を求めて、代表使節を送ってくると、阮朝は、その使節を自国の徳を慕ってやって来た「封臣」と勝手にみなし、自国が「中国」であることを正当化した。阮朝は、これらの「封臣」に囲まれた「優越感と宗主意識」(注3)を持ち、北の中国と「南の中国」とは、宗主対封臣の関係ではなくて、対等な関係であるとした。

西山党を打倒してベトナムの統一を回復した際、「フランスの志願兵と宣教師の助力を仰いだため、フランスの進出をゆるすことになった。」(注4)カトリックの布教や西欧諸国を排絶する方向を選んだので、フランスは1858にダナン(ツーラン)に砲撃を加えて開国を迫った。ついに1862年、フランス・スペイン合同軍の侵略を受け、第一サイゴン条約を締結し、コーチシナ東部三省等をベトナムは割譲とカトリックの布教を認めさせられた。これを契機として徐々にベトナムを蚕食したフランスは1885年6月、清国と天津条約を結びベトナムに対するフランスの保護権を認めさせた。これにより、ベトナムに対する長年の中国の宗主権は完全に放棄された。

 

フエ王宮  2000年1月
阮朝の都は、ベトナム中部のフエにあった。王宮は完全に中国風で、建物内部には漢字が多くみられる。
現在、フエ王宮は世界遺産になっている。


第2章 二つの戦争 〜協力関係から対立へ〜

 

第1節  抗仏戦争期
 
第1章では、古代から中国とベトナムの(阮朝)までの関係史をみてきた。以上でわかるように中国の侵攻と支配、それに対するベトナムの抵抗の繰り返しが両国の関係だったと言ってもよい。また、ベトナムは、日本と同様に中国文化を受容し、独自の文化に昇華させていったとも言える。この両国間の関係において、大きな変化が生じ始めたのは、フランスのインドシナ進出と植民地化であった。ベトナムが勢力争いの対象にとなり「他の大国が互いに牽制し合うように」(注5)なった。また「フランスのベトナムの進出、植民地化は、朝貢による宗主権の承認といった政治面ばかりか、科挙制度の廃止、漢字からローマ字への転換といった文化面においても中国の影響を終わらせる発端」(注6)となった。歴史上続いてきた両国における支配、被支配の関係とは異なるものになった。

ベトナムは民族独立と社会主義の闘争のために中国とフランスの同志に援助を求めることになった。この闘争の経過の中で中心的役割を果たすのが、ホー・チ・ミンである。ホー・チ・ミンは、他のベトナム亡命者と共に青年組織を作り、他の二組織と合流してインドシナ共産党を1930年、香港で発足させた。「フランス共産党もソ連共産党もホー・チ・ミンを支持したが、コミンテルンの名において、インドシナ革命で積極的役割を果たしたのは中国共産党にほかならない。」(注7)

  ホー・チ・ミンは、中国延安の根拠地にいた毛沢東を訪れた。ホー・チ・ミンの仲間は、「第二次世界大戦の勃発を控えて、華南の国境地帯に自分達の臨時根拠地を打ち立てていた。」(注8)ベトナムの解放勢力(ベトミン)は、日本の敗戦による第二次世界大戦の終了に伴ない権力の空白をついてベトナム民主共和国を1945年9月に樹立した。しかし、再びフランスはベトナムに戻り、圧倒的な軍事力を前に再びジャングルへ潜伏した。  以後、9年続く抵抗戦争(第一次インドシナ戦争=抗仏戦争)では、中国のベトナムに対する莫大な援助があった。具体的には、中国からの武器引渡しは1954年に、一ヶ月あたり4000トンに膨れあがった。「軽火器も重火器も、無償で引き渡された。少なくとも4万人のベトミン兵が華南で訓練をうけたともいう。中国人の顧問や技術者が前線に送られることもあった。」(注9)

ベトミンは、1954年には全国土の四分の三を支配するにいたり、同年の5月には、フランス軍の要衝ディエンビエンフーを陥落させ、フランスに勝利した。この決戦では、中国人兵士は輸送や通信系統ばかりでなく、少なくとも部分的には、銃砲や対空砲の操作に当っていたといわれる。

ディエンビエンフーの戦いに勝利したベトナムであったが、インドシナ問題解決のためのジュネーブ会議で中国、ベトナムの対立が発生した。会議では勝者であり有利に交渉を展開できるはずであった。しかし、ベトナムはベトナム内にある重要とされた解放区の放棄を意味する17度線を軍事境界線とする妥協を強いられ、ベトナムが支援していたラオス、カンボジアの抗戦政府の会議参加は認めらず、ラオス、カンボジアからの撤退を要求された。ベトナムのこのような譲歩を引き出す大きな役割を果たしのが中国であった。「ホー・チ・ミン=周恩来会談が、ベトナムにおける軍事境界線問題で、べトナムが側の大幅な譲歩を説得する場となった。」(注10)

 周恩来はジュネーブ会議の最中、「10日以内に協定を締結さるために、またフランス政府が認めることのできるようにするために(〜中略〜)提起する条件はなるべく簡単で明瞭なものが望ましい。討議を複雑にしたり、ややこしくしたり、時間を無駄にしたり、会議を長びかせたり、アメリカにこの交渉を破壊させたりしないことが望ましい。」(注11)とベトナムに助言し、譲歩を促した。

これからも分かるように中国はベトナム側に有利な解決方法を求めたのではなく、あくまでも「調停者」に終止した。1953年、中国は朝鮮戦争で停戦協定が結ばれた直後だったこともあって、平和な環境のもとで経済建設を進めたかった思惑もあり、大幅な妥協を強要した。無論、ベトナムは不満であったが、結局最大の支援者である中国に従わざるを得なかった。(*1)

 中国側の言い分とすれば「ベトミンはまだ非力であり、中国のテコいれがなければフランスに勝てなかったはずだ。いわんや、予想されるアメリカ軍の介入に直面したら、ひとたまりもない。それよりはここで北ベトナムだけでも確保して力を蓄え、南部開放については将来考えればいいことではないか、これ以上戦争に中国を引き込まないでほしい。中国も平和裡に建設を進める時間がほしいのだ。」(注12)ということであった。

一方ベトナムの言い分は「自分の安全を守り、アメリカの脅威に対処するために東南アジアを用いた。」「アメリカがこの地域に入るのを阻止するためにフランスをインドシナにとどめ、解放されたベトナム北部とラオス北部の二省を中国南方の緩衝安全地帯にとすること」(注13)といえた。

(*1)  
これが教訓となって、抗米戦争(ベトナム戦争)の際のパリ協定の交渉で、北ベトナムは第三国の参加を拒んだ。

 

ディエンビエンフー 戦場跡  1998年2月
フランスを打ち破った歴史的な場所だけに、興味があって行ってみた。しかし、ハノイからバスで20時間以上もかかり、想像以上に山奥であったのには驚いた。私は、北部の観光地・サパからここに向かったが、ライチャウで一泊しなければならず、そのルートもかなりの山道だった。現在もフランス軍の使った総司令部跡などが残っている。ディエンビエンフー一帯は、少数民族のターイ族が多い。

友諠関資料館内 1999年5月
中越国境にある友諠関(表紙)の内部は資料館になっている。そこには、かつての「兄弟的友好」時代を示す写真が展示されている。ホー・チ・ミンと会談する毛沢東、ホー・チ・ミンと抱き合う周恩来、ホー・チ・ミンと肩を組むケ小平の写真があった。館内には1979年の「中越戦争」に関する資料は一切なかったが、清仏戦争の資料が若干あった。また「抗米援越法」に基づき、ベトナム戦争時に多くの援助物資がこの友諠関を越えたという説明書きがあった。

 

第2節 抗米戦争期

 ベトナムはフランスにかわって、アメリカとの戦争に突入していったが、この抗米戦争においても、中国とベトナムの対立があった。ベトナムは抗米戦争遂行に際して、ソ連を含む全ての社会主義国、共産党、平和勢力、反米諸国などより広範な支援を訴えていた。それに対し中国は、ソ連がベトナムに援助するのは、「兄弟国(筆者注:中国とベトナム)をソ米協調による世界支配という馬車に縛り付ける」「ベトナム問題をソ米両国の取引の重要な数取り棒にする」「兄弟党を孤立させ、これらの党に打撃を与える」(注14)ためだと主張した。そして、中国は、ベトナムに対し、ソ連との距離をおくように迫った。中国経由のソ連からの援助物資はたびたびベトナムに到着しないこともあった。

 1966年7月、アメリカが北爆を強行し、本格的にベトナム戦争が拡大しようとしていた。ホー・チ・ミンは「全国同胞に告ぐる書」を発表。その中で「私は社会主義の兄弟国、世界の平和の愛し正義を主張している国家の人民と政府が…ベトナム人民にいっそう強力な支持と援助を与えてくれるものと確信していると」と訴えた。しかし、「中国は『ソ連と共同行動をとると、米帝の共犯者となってしまう』としてソ連と協力してベトナムを援助することを拒否し続けた。」」(注15)それどころか、ベトナムでの戦争が激しさが日増し高まる最中、中国では、毛沢東・林彪らが文化大革命を発動し、中国国内は大混乱に陥った。中国からのベトナムへの援助物資は紅衛兵に強奪される有様であった。

 林彪は1965年9月3日の「『人民日報』に発表した論文「人民戦争の勝利万歳」で、「一国の革命、一国の人民戦争は、その国の人民大衆自信の事がらであり、それは主としてその国の人民大衆自信の力に頼るべきであり、またそうしかできない」(注16)と述べ、ソ連の援助を受けることもやめるようベトナムに「勧告」しただけでなく、中国の援助を期待しないように求めた。「毛林派は、アメリカに対中攻撃のないことを確かめると、『ベトナムがアメリカの大軍をひきつけて悩ましている限り、対中国包囲網も弱まる。中国はその時間を利用して内部の敵(反毛林派)を処理し、経済建設、国防建設を励むことができる』」(注17)と計算した。

「中国当局者は、ベトナム人民に対して『長期にゲリラ戦でたたかい、大規模な攻撃は行ってはならない』と一貫して主張した。彼らの人民に対する主要な援助は、軽装備兵器、弾薬、後方支援などであった。彼らは、ベトナム戦争の早期終結を望まなかった。」(注18)しかし、万一、対中包囲網の緩衝国としてのベトナムが敗れ、アメリカ勢力と直接地続きになっては困るので、「ベトナムが敗れない程度に援助を与えていた」(注19)ことになる。また、中国は、時間を稼げるほど戦略上望ましいという観点から、ベトナムの武力によるアメリカ軍追い出しを願い、1968年5月からのアメリカ=北ベトナム間の和平会談にも反対した。

 こうした亀裂が生じはじめてきた時期に、ベトナムに決定的な失望と怒りと衝撃を与えたのが、1972年のアメリカ大統領ニクソンの訪中であった。中国は西側接近の足がかりとしてアメリカに接近し、このニクソン訪中はその契機となった。ベトナムからすれば、民族の存亡をかけた戦いの、まさに相手国、敵国であり、とても見過ごすことは出来なかった。これに対し、周恩来は、「『われわれはニクソンには何も与えない。われわれはあなた方を決して見捨てはしない。友人を売ることは決してしない』と弁明」(注20)するしかなかった。

 抗米戦争最終段階の1975年の「ホー・チ・ミン作戦」(サイゴン攻略作戦)に対し中国は「ベトナムの闘争は、まだ長期に続かなければならない。アメリカが、どうしてベトナムからの撤退をうけいれようか、ベトナムは攻勢を小規模にして、数年休んだ方がよい」(注21)といって反対した。その理由として、第一に、ベトナムの軍事力では、サイゴン解放は無謀であると判断した。第二に、これ以上ソ連の援助によるサイゴン攻略作戦が成功した場合、ベトナムがソ連の影響下におかれることを危惧したからであった。むしろ、戦争状態の方が中国にとっては得策であると判断したのであった。

ベトナムは、ソ連製の戦車や長距離砲を大量の動員し(この攻略作戦のために特別にソ連が供与したものではなく、攻略に備えてベトナム側がためこんでいた。)サイゴン攻略作戦を遂行し、1975年4月30日、サイゴンを陥落させ、ベトナムの長い分裂に終止を打った。

のちにベトナムは、このサイゴン解放の歴史的意味を「わが軍民の75年4月30日の歴史は、古今東西をつうじての、アメリカ帝国主義のもっとも大きな軍事的、政治的失敗であっただけなく、アメリカと結託して、サイゴン傀儡政権とアメリカの存在を維持し、わが国土を長期に分裂して、われわれをその反動路線にひきこもうと陰謀をいだいた、中国の拡張主義、大国覇権主義のみじめな失敗でもあった」(注22)と結論付けている。社会主義国としての兄弟国中国との溝は埋まらないものとなった。


第3章 表面化した対立

 

第1節 対ソ連関係をめぐって

 中国では1965年末から文化大革命が発動され、国内は混乱の渦に巻き込まれていったが、ベトナムは文化大革命について一切言及することはなかった。急進的左派が主流の中国では、1960年代頃からソ連を「現代修正主義」と見なしていた。また、毛沢東は、ソ連だけでなく、ソ連と対峙しない海外の社会主義政党をも「現代修正主義」と見なした。一方、ベトナムはソ連をそのようには見なさず「社会主義国」と見ていた。中国は、ソ連を「社会主義」と見なすベトナムを「修正主義的」であるとはしたが、「現代修正主義」とは断言しなかった。ソ連から援助を得ているベトナムが、ソ連をあからさまに批判できないと判断したためだった。当初は寛大な中国であったが、中国の見解に従わないベトナムに対して徐々に苛立ちを見せるようになり「ベトナムは反帝(反米)はやっても修正主義反対をやらなければ、もう一度、第二次革命が必要となろう。」(注23)と言及するほどになった。

 当時、中国は、米ソが第一世界、日本・ヨーロッパ諸国が第二世界、発展途上国が第三世界を形成するという「三つの世界論」を説き、ソ連が現代世界最大の戦争の根源であるとした。ベトナムはこの「三つの世界論」の見解をとらず、「世界の全革命勢力が連帯して"第一の敵"アメリカ帝国主義に反対する、そのためにはソ連とも団結すべきだ」(注24)という見解をとり、「自分と異なる考え方をする国はみんな敵とみてしまう」(注25)中国を批判した。中国は「社会主義陣営はもはや存在しない」とし「第三世界の諸国と人民」が「反帝国、反覇権主義闘争の主力軍」と規定したが、ベトナムは「社会主義諸国、民族解放運動、資本主義国の労働運動」を「現代の三つの革命勢力」とした。

 両国がソ連との関係、評価をめぐって対立してが、ベトナム抗米戦争後は、ソ連にどういう態度をとるのか、更には、ソ連と闘うのか、協力するのかが大きな争点となった。中国は、南北統一後のベトナムは、ソ連に気兼ねすることなく「反ソ統一戦線」の加わり、ソ連と対決することを期待した。

1977年、レ・ズアンの訪中の際、華国鋒主席は、「われわれは、帝国主義と社会帝国 主義(ソ連のこと)の侵略、転覆、干渉、支配、侮辱をうけている国のもっと広範な統一戦線を結成して、超大国(ソ連)の覇権主義に反対しなければならない」(注26)と訴えた。これに対しベトナムは、「ベトナム人民は友人(ソ連)と敵(米国)をつねに明確に区別してきた。(〜中略〜)われわれは友人(中国)がこころがわりしたときも、ただひたすら従順なわけではない。やみくもに友人を信じることは、誰にとっても利益がない。」(注27)として中国の路線に同調しなかった。

中国にとっての最大の問題は、ソ連の対中国封じ込め政策であった。中国は、反ソ統一戦線への参加を拒絶し、ソ連寄りの行動をとりはじめたベトナムをソ連の対中国戦略の手先だと判断した。そしてベトナムが、より一層、経済的、政治的にソ連に取り込まれることを危惧した。ベトナムに対するソ連の経済援助は、技術援助、人的援助は、膨大なものとなった。ベトナム政府、党内の要職から中国系幹部が外され中国派とされた中央委員が解任される自体に対し、1977年、中国はベトナムとソ連との関係分断は不可能と判断し、ベトナムとの対決姿勢に踏み込むことになった。

 

第2節  援助問題

「四つ(農業、工業、国防、科学技術)の近代化」を推し進める中国は、ベトナム抗米戦争が終わった以上、ベトナムに対する援助負担のかなりの削減を求めたが、ベトナム側は、長期にわたる戦争で壊滅的な打撃を受けた経済を復興させるためにも、少しでも多くの外国の援助が欲しかった。

 結局は、75年で無償援助は打ち切るが、借款は76年〜80年に毎年約2億ドルを供与することで両国は落ち着いた。しかしながら、ベトナムは、五ヵ年計画(1976年〜1980年)で総額75億ドルの新規投資を見込んでいただけに、この妥協案には不満であった。  その一方で、訪ソしたレ・ズアンに対し、ソ連は五ヵ年計画の投資総額の三分の一にあたる26億ドルの長期借款を、東欧諸国もソ連につづき7億ドルにもの長期借款を約束した。これによって、ソ連側の経済援助が活発化し、「ホアビン・ダム(年間発電量80億キロワット)、石油コンビナート、製鉄所など巨大プロジェクトがスタートし、ソ連技術者1500人が送り込まれてきた。」(注28)

これに対し中国は、「ソ連の手先と化したベトナムを援助することは、ソ連の反中国包囲網の強化に協力するものだ。」(注29)とし、これを自殺行為と判断した。またこの時期、中国では、総額3500億ドルにものぼる十ヵ年計画(1976年〜1985年)の最中で、経済的に苦しい状況にあった。以上の理由からベトナムに対する援助を打ち切ることを決め、76年から徐々に減らす策にでた。

 しかし、ベトナムはコメコン(ソ連・東欧経済相互援助会議)に加入するなど、ソ連側との協力関係をさらに強めていった。中国は、反中国包囲網としてのベトナムが強大になることを懸念し、華僑問題(次節で述べる)を持ちだし、1978年7月3日「ベトナム側が中国政府の辛抱強い勧告に耳を傾けず、ひたすら反中国・華僑排斥に拍車をかけていることから、(〜中略〜)両国人民の兄弟的感情はひどく傷つけられ、中国を中傷し敵視する悪い雰囲気が熟成され、中国専門家がベトナムで援助プロジェクトの建設にあたるうえでの最低限の条件が破壊された」(注30)とし、ベトナムに対する経済・技術援助の全ての打ち切り、中国人専門家の引き上げを通告した。

 

第3節  華僑問題

そもそもベトナムに中国人が入ってきたのは、漢の時代からであった。それ以後、唐の植民をはじめ、歴代王朝が滅亡するたびに前王朝の残党(具体的には宋、明、清末期の遣民など)が亡命した。1708年には、広東の鄭氏一族の大規模な移住もあった。その華僑人口は、1879年で4万人、第二次世界大戦前の1931年には、42万人にも達し1977年で150万人(北に25万人、南に125万人)はいたとされる。(注31)

1955年、周恩来首相は、「二重の国籍を拒否し、華僑に対して、住居国の国籍を受け入れるよう奨励」(注32)し、両国は「北ベトナム在住の華僑はベトナム人と同じ権利を享受することを前提に、長期にわたる辛抱強い思想的説得と教育耕作を経て、漸次ベトナム公民にする」こと(注33)に合意した。1961年には、ベトナム駐在中国大使館は、華僑に対し旅券を発行しないこと(北ベトナムにおいて、外国人居住者としてではなく、一般のベトナム市民として扱われることを意味する)で合意した。

 南ベトナムの125万人半数以上の華僑は、サイゴンと隣接するチョロン地区(フラン式に読むとショロン)を中心に住み、国内の商業の大半を支配していた。南ベトナム政府は、「外国人居住者の人口の割合がこのように大きいことは、ベトナムの主権に対するかなりの侵害をもたらす」(注34)と受け止めた。また、南ベトナム華僑は、もともと中国本土出身なので、中国共産党政府との結びつきが強かった。そのため、1956年、ゴ・ディン・ジェム政権は「『国家の中の国家』の存在を取り除く目的」(注35)として、強制措置をとった。この措置によって、ベトナム国籍の取得を強要し、法律上は、ほぼ全ての華僑がベトナム国籍になった。しかし、「外国のスパイ」の浸透を恐れたため、一般国民に課せられる兵役は免除された。中国人学校では、カリキュラムにおいて地理、言語、歴史の「ベナム化」が図れ、脱中国化を推し進めた。

 当時、北ベトナムは、ゴ・ディン・ジェム政権の在ベトナム華僑に対する政策を非難し、華僑の国籍選択自由の保障、ゴ・ディン・ジェム政権(=アメリカ傀儡政権)の法令の放棄を表明していた。しかし、統一後は、ベトナム籍をとった中国系ベトナム人を既成事実化するようになった。

 サイゴン解放後の1978年3月、ベトナム最大の華僑の町、チョロン地区で、ベトナム人民軍、警官、青年突撃隊が包囲した。華僑商店の隠匿物資の摘発、没収を断行し、南ベトナムの資本主義的商業は完全に廃止され、通貨統合で余剰資産を凍結された。この「社会主義的改造」によって商業権益を奪われ、財産を没収された華僑のうち裕福なものは、タイや香港に脱出した。これに呼応するかたちで、北ベトナム在住の華僑が家族ぐるみで、次々と国境を越え、中国に脱出を図った。その数は、78年で16万人にも達し、華僑全体の20%とも言われる。

 このベトナムでの華僑迫害を契機に、前節で述べたように中国はベトナムに対する援助の全面的な打ち切りに踏み切ることになった。「四つの現代化」を推し進めるために、海外華僑の経済的協力を期待している中国にとって、華僑の迫害は黙認できるものではなかったとも言える。

 だが、中国政府は、ベトナムから逃げてきた華僑の入境を国境を閉鎖して阻止したり(難民の受け入れの経済面での負担と、中国国民党やベトナムのスパイが存在などの理由による)、50万人の在カンボジア華僑が、ポル・ポト政権による迫害を受けても、それを黙認し、見殺しにした事実を考慮すると、果たして中国が、本気でベトナム在住華僑の保護を考えていたのかは疑問がのこる。

 

第4節 国境地帯に混在する少数民族

中国内陸部とベトナム北部の国境地帯の住民は「少数民族」(中国で場合、漢族に対してベトナムの場合キン族に対しての少数)で構成されている。植民地時代、住民はフランスの「分割支配」に対して反抗し、独立運動組織ベトミン(ベトナム独立同盟)と独立後の自治区の約束を取り付けた上で協力した。少数民族地帯は、抗日、抗仏戦争の際、背後の中国との密接な関係があり、物資供給ができ、また、険しい山岳地帯であったことから、ゲリラ活動の基地となった。ホー・チ・ミンもこの山岳地帯を中心に抵抗運動を指揮し、ついには、ディエンビエンフーでフランスにも勝利した。

 ベトナムが暫定的に南北に分断されたジュネーブ協定後、約束通りこの地は、ベトバク自治区、タイバク自治区となった。北ベトナムの人口の僅か六分の一に過ぎない両自治区が、北ベトナムの面積の実に三分の二を占めた。北ベトナムの議会でも、1964年455議席のうち64議席、1971年420議席のうち73議席」(注36)を少数民族が占め、最高人民裁判所、文化省などにおいても要職に就いた。

 中国側の国境地帯も、少数民族が多く占める雲南省、広西省(現広西チワン自治区)の二省が成立した。もともと同じ民族の住居する山岳地帯に国境線ができた状況の中で、国境を隔てて結婚したり、働いたり、売買が行われ頻繁な行き来があり、「ベトナム側のベトバク、タイバク両自治区と中国側の雲南省、広西省(現広西チワン自治区)の間に『特別な関係』が生じた。」(注37)代表の相互訪問や、交通や移動の移動の面でも特別な取り決めがなされた。

 1976年、ベトナムは第二次五ヵ年計画を決定し、その中に「人口の密集した都市部の住民を地方の低開発地域へ移住させるという大がかりな人口再配分計画が含まれていた。」(注38)これに対して少数民族の間に不安を起こすとになった。それに拍車をかけるように旱魃と洪水が交互にやってきて、不作と食糧不足が起ったため、北ベトナムの少数民族住民が中国へ移動する動きが活発化した。そして「中国領内の方が消費物質の価格が格段に安いため、彼らは中国人でありたいと願う傾向がでてきた。彼らの幹部の中にも、ベトナムの自治区としてよりも中国の自治区として存在することを望むものが出てきた。」(注39)

 このことが両国の国境紛争の火種となった。国境地帯に軍隊が増強され、出入国の制限を厳しく行った。ベトナム政府は、「北京から予想される破壊耕作に対処するために」(注40)十分な準備を整えることを決定し、少数民族の融和、統合は十分に進んだとして、両自治区の廃止し、通常の省に再編し少数民族の中国へ離反防止に躍起となった。

バックハーの日曜市場  1998年2月
中国との国境近くにある日曜市場。村々から少数民族が集まって市場は賑わう。写真は花モン族。

サパにて   1998年2月
定期的に山からおりて市が立つ。ザオ族。少数民族の住む山村は今でも国境をまたいでの行き来が普通にあるといっていた。


第5節 南沙、西沙問題

1973年、サイゴン政権が西沙諸島海域の領有権を主張して、軍艦を率いてこれを占領した。しかし、翌年の74年、アメリカの黙認を得た中国海軍と南ベトナムのサイゴン政権軍との間で海戦が勃発した。これにより、サイゴン側は撤退し中国側の圧勝に終わった。北ベトナムはこれに対し、紛争の解決を求めただけにとどまり中立の立場をとった。75年、中国は西沙諸島に革命委員会を設置した。南沙諸島には、73年にサイゴン政権軍が上陸し、サイゴン陥落直前に北ベトナム軍が占領し、駐屯した。

 中国は、歴史的文献などを持ち出して、両諸島が中国領であることを証明しようとしているがはっきりした証拠はない。両諸島は、もともと無人島で、それほど重要視していなかったために、確固とした領有権は曖昧であった。第二次世界大戦前、ベトナムを支配していたフランス軍が一時西沙を占領し、それを旧日本軍が接収した。1951年、サンフランシスコ講和条約で日本政府は、領有権を放棄した。

「中国はサンフランシスコ講和条約調印の直前に周恩来外交部長が『米英の対日講和条約草案とサンフランシスコ会議にたいする声明』を発表し、『西沙群島は南沙群島全体および中沙群島、東沙群島と同様に、従来から中国の領土』である」(注41)と一方的な宣言を行った。しかし、実効支配につながる具体的行動はなにもとっていなかった。当時、ベトナムは抗仏戦争の最中であったいか、これらの領有権については何も言及しなかった。

 珊瑚礁や、岩で構成される両諸島でそれまでは、それほど注目されていなかったが、膨大な石油資源が埋蔵されているという調査が発表された。また、太平洋とインド洋を結ぶ、通商上、軍事的戦略上の要衝として、その重要性が、認識されるようになったために領有権争いがはじまった。

 民族の存亡をかけて抗米戦争を闘い抜いたベトナムにとって、領土問題は民族感情とも結びつき、そう簡単に譲歩できないという立場もある。両者折り合いのつかないまま、更にフィリピン、マレーシア、台湾、インドネシアなども領有権を主張して現在も係争中である。


 

第4章 カンボジアをめぐって

 

第1節 カンボジア共産党

1951年インドシナ共産党が解散し、カンボジア人民革命党(のちのカンボジア共産党)が創立された。彼らは、クメール・イサラクを組織し、抗仏戦を闘った。カンボジア人民革命党の内部は、ベトナムで共産主義を学びゲリラ戦の訓練を受けたクメール・イサラク系の「ベトナム派」と、フランス留学時代にマルクス主義、無政府主義を学んだポル・ポト、イエン・サリを初めとした「フランス派」に二分された。

「ベトナム派」は、シアヌークの反米路線を評価し、シアヌークを含む国民各層の広範な統一戦線を摸索し、ラオス人、ベトナム人とも協力して、植民地、帝国主義の一層を主張した。一方、「フランス派」は、シアヌーク王制の打倒を掲げ、シアヌーク王制の打倒と急進的な革命路線を主張し、ベトナム、ラオスとの協力には関心がなかった。

このような方針の差により、両者は対立した。結局、シアヌークによる激しい左派弾圧によって、非合法化同然の党内で「フランス派」が主流派の地位を占めることに成功した。しかし、大多数の農民から圧倒的な敬愛を受けていたシアヌークを敵に回したために、カンボジア共産党の勢力は、非常に弱く国内の支持を得ることができなかった。ベトナム、中国、ソ連も、排他的なフランス派が主流であったため、カンボジア共産党との関係は良好とはいえず、関心は「主として、南ベトナムの解放勢力の後方支援基地としてカンボジア領が有効に使えるかどうかにあった。」(注42)

 

第2節 カンプチア民族統一戦線の結成

1970年、親米派のロン・ノルのクーデターによって、反米のシアヌーク政権が打倒された。これを好機とみたベトナムは、激しい対立をしていたカンボジア共産党とシアヌーク派、そして中国を結びつける役割を担うことになった。ファン・バン・ドン北ベトナム首相は急遽訪中し、シアヌークの反帝国主義路線を評価して、毛沢東に批判的なシアヌークに対し好意的でなかった中国を説得した。シアヌークが毛沢東を批判しないことを条件に、中国の支持を取り付けた。(その結果、シアヌークの北京訪問は熱烈に歓迎された。)同時に、ベトナムは、ジャングルに潜むポル・ポトを訪ね、シアヌークとの協力を説得し、了解を取り付けた。

こうしてシアヌーク派、インテリ左派、カンボジア共産党内の「フランス派」らを含む広範な統一戦線組織であるカンプチア民族統一戦線(FUNK)が結成された。これを基づき、カンボジア王国連合政府と民族解放軍が組織された。北ベトナムに移動していたカンボジア共産党内の「ベトナム派」もカンボジアに戻ってカンプチア民族統一戦線に合流し、ベトナムからの援助も本格的になった。

 1973年〜74年にかけて、カンプチア民族統一戦線は、「フランス派」指導のもと、ベトナムの反対を押し切って何度か、ロン・ノルら勢力下にあった首都プノンペンに進撃したが、何れも失敗に終わった。援助していたベトナムの反対を押し切ってまでの無謀な作戦は「フランス派」の歴史を介在したベトナムに対する反発、抵抗であったといえる。(*2)

 

 

第3節 親中国と反ベトナムのポル・ポト政権

1975年、カンプチア民族統一戦線は、強力なベトナム軍の力を借りて、ロン・ノル政権を崩壊に追い込み、人々の喝采を受けながら、プノンペン入りを果たす。ベトナム軍がベトナムへ引き揚げると、ポル・ポトが政権に就いた。

 しかし、プノンペン入りした直後からポル・ポト派は、住民に銃口を向け強制的に農村へ移住させ、無人化した町を徹底的に破壊した。農村へ移住させられた人は、過酷な労働を強いられた。通貨を廃止し、全ての宗教活動を禁止した。また無計画な灌漑水路を作ったために、農業生産は壊滅的な打撃をうけ、飢餓を招いた。さらに、インテリ層を中心にポル・ポトに反発した(または、反発したと疑われた)国民を次々に虐殺した。「1975年からわずか4年の間に、人口の三分の一にあたる200〜300万人が命を落としたといわれる。」(注43)また、シアヌークは幽閉同然で、シアヌーク派も全員が失脚した。

 こうした狂気路線に対し、当然のことながら、抵抗が活発化し「ベトナム派」とシアヌーク派左派が、反ポル・ポトのゲリラ戦を展開した。ベトナムは、カンボジアからの避難民、メコン・デルタに居住しているクメール族を訓練し、武器供与を行い、反ポル・ポト政権打倒運動を公然と支援した。

一方、毛沢東及び「四人組」がポル・ポト派と毛沢東の政治思想の類似性が両者を結び付け、中国は、ポル・ポト政権を支援した。(1960年代の文化大革命の最中に、ポル・ポトが訪中し、このころから、関係が密になっていたといわれている。)両者は、無政府主義的傾向(毛沢東が発動した文化大革命からもわかる)、民族排外主義、極端なまでの農本主義、自力更正主義などの共通点があった。

1976年春、「文革派による『右からの巻き返しに反対する闘争』で実務派のケ小平が打倒された。その際、ポル・ポト政権は、これを公式に歓迎した。」(注44)そのために、中国指導部は、ポル・ポト政権によって50万人ものカンボジア在住華僑が、農村への移住を強いられ、虐殺されたにもかかわらず、「カンボジアの内政問題」として、これを黙認した。

 76年秋、毛沢東の死去と、それに続く「四人組」の逮捕という中国国内の政変にポル・ポト政権は慌てたが、華国鋒=ケ小平政権は、ポル・ポト政権とは、政治路線のかなりの食い違いにも関わらず、「統一を果たしたベトナムが将来、強大で、自立した社会主義になることへの危惧」「ポル・ポト政権の反ソ的傾向が中国の反ソ世界戦略という利害関係に一致した」(注45)ためにポル・ポト政権への支援を確約した。そして、ケ小平らは、「極めて打算的な判断から、カンボジアを使ってベトナムの力を今のうちに弱めておこうとした。」(注46)



カンボジアの首都プノンペンにあるトゥールスレン博物館 2000年1月
ポル・ポト時代、刑務所として使われた高校。拷問の器具が陳列されている。 

 

第4節  ヘン・サムリン政権の樹立

 ポル・ポト政権軍は、77年4月にベトナム領に国境を越え大規模な攻撃を仕掛け、アンザン省の国境沿いの村を次々と襲い、1000人余りを虐殺し、大量の米を略奪した。「べトナムは、カンボジアの挑発・侵略が本モノであると考え、急遽ボー・グエン・ザップ(国防相)をカンボジア国境に派遣して対策を協議同年12月には、懲罰的意味も込めてカンボジア領に浸入して、カンボジア軍を徹底的に打ちのめした。」(注47)

 カンボジアのポル・ポト政権が、歴史的な経験から(*3)、べトナムが憎いといっても、カンボジアがベトナムに攻撃を仕掛けることは、人口はベトナムの八分の一、兵力は七分の一、質量ともに圧倒的な兵器の差、という点からいっても無謀であった。ポル・ポト政権が、この無謀とも思われる軍事的挑発に出ることができたのは、中国の援助があったからであった。ベトナムは、この軍事的挑発を「『中国政権担当者の反革命的拡張戦略の一部である、中国政府によって激励され、組織され、指導され、あらゆる武器と戦争手段を供与された戦争』(注48)と非難した。

同年、訪中したポル・ポトは、中国の支援継続を確認して帰国した後、ベトナムを再び攻撃し、対ベトナム国交断絶を一方的に宣言し、世界にベトナムに対する対決姿勢を明らかにした。べトナムの安全保障の観点からすれば「北の中国と西のカンボジアが手を結んでヴェトナムを挟撃することは、何としても避けたいシナリオであった。」(注49)、ベトナムは、このバランスの不均衡を是正するためにソ連との関係をより緊密にし、1978年11月、「ソ越友好条約」を締結した。この「ソ越友好条約」は、一種の軍事同盟で、「もし一方が攻撃の対象になった場合には、ソ連とベトナムは、この脅威を排除し、平和と両国の安全の保障のために然るべき効果的な措置を講ずる目的で協議を開始する。」(注50)と規定した。この条約締結は「はっきりと、中国を仮想敵国と想定しての処置だった。」(注51)

この条約が雨期明け早々の11月に発表されたのも、計算されてのことであった。「アジアにおいてベトナム軍が電激戦を行うには乾期を待たねばならないが、条約締結の発表を早くすると中国側が対応準備を整え、中越国境で軍事的圧力を加えてくる可能性があったからである。」(注52)

 「おいつめられたポル・ポト政権が大攻勢を試みる可能性は高く、最悪の場合には、それに北部からの呼応が加わる可能性があった。ベトナムにとっては、『長期にわたって混乱をひき起こし、長期にわたって破壊をおこない、わが国を疲弊させ併呑しようとする』『敵の悪辣で陰険な陰謀』が現実の明確な姿をとってきたと感じられ、「敵が無謀にもひき起こしかねない大規模な戦争を覚悟しなければならなかった。」(注53)

1978年12月2日、ポル・ポト政権に反発するカンプチア救国民族戦線が、国境近くの カンボジア領のクラチエ州で結成され、その首班にヘン・サムリンが選ばれた。12月23日、べトナム領タイニン市を攻撃しようと侵入したポル・ポト政権軍は、ベトナムの反撃によって敗北し、国境地帯の結集していたポル・ポト政権軍もベトナム攻撃によって致命的打撃をうけた。それに呼応する形で、12月25日、カンプチア救国民族戦線が蜂起し、援助要請をうけてベトナム軍は、カンボジア領に進撃する。当初は、メコン川を渡らないでメコン川東岸までを占領する予定で、首都のプノンペン攻略は考えていなかった。しかし、ポル・ポト軍の敗走を目のあたりにして、快進撃を続け、翌年の1979年1月7日、プノンペンを解放した。1月8日には、人民革命評議会が設立され、1月10日カンボジア人民共和国の樹立が宣言される。ポル・ポト政権は崩壊し、タイの国境地帯へと逃走。4年間にわたる恐怖政治に終止符が打たれ、親ベトナムのヘン・サムリン政権が樹立された。翌月、ヘン・サムリン政権は、ベトナム政府と平和友好協力条約を調印し、その中の防衛条項によって、ベトナム軍のカンボジア駐留を「合法化」された。

 この一連の動きは、ポル・ポト政権の自国民の大虐殺を、ベトナムの軍事介入によって、終わらせることができたにせよ、ベトナムの弱小な隣国への過干渉も否定できなかった。そのために国際世論からの反発を招いた。(当時、ポル・ポトによる大虐殺は国際的に認知されていなかった。)

 ベトナム自身は、このカンボジアへの関与について「『侵略の犠牲者ベトナム』が、当然行使しうる自衛権の発動であった」「ポル・ポト=イエン・サリン一派という手段によって北京当局が設けた新植民地主義体制にたいして国連憲章でおごそかに宣言された権利、民族自決権を行使したカンボジア人民の要請で与えられたもの」(注54)とその正当性を主張している。

ベトナムとカンボジアの国境モクバイ 2000年2月
サイゴンから車で2時間足らずで、カンボジアの国境(モクバイ)についてしまう。国境を越えてカンボジア領になるが、道は大変悪い。それでも、その日のうちにメコン川を渡って、首都のプノンペンついてしまう。このことからも、いかにカンボジアがベトナムを警戒するのか分かる。カンボジア領に入って急に道が悪くなるのは、財政的なものもあるかもしれないが、防衛上の意味合いもあるのかもしれない。(中越国境の友諠関を越えて、ハノイまでの道のりも道がわるいが、これも同じ理由かもしれない。)

(*2)(*3)

カンボジア人の祖先であるクメール民族は、現在のカンボジアに加え、メコン・デルタを領土とし、最盛期には、タイやビルマまでをも支配する大帝国を築いていた。しかし、17世紀からベトナム(阮朝)の侵食にあってメコン・デルタの領土を失い、19世紀中頃に、ほぼ現在の領土に縮小された。そのため、メコン・デルタは自分達の領土であるいう意識はカンボジア人に強い。

フランスの植民時代には、フランスは、下級官吏のベトナム人を使ってカンボジアの支配を代行させた。直接住民を支配したのはフランス人でなく、ベトナム人であったために、カンボジア人の恨みはベトナム人に向けられた。植民地時代のカンボジアでの公用語は、フランス語とベトナム語であったために、カンボジア人が官吏として登用されるためには、このどちらかの言葉の習得をしなければならなかった。


 

第5章  中越戦争とその後

 

第1節  中国軍の侵攻直前

カンボジア情勢が目まぐるしく変化する中、中国は「中国政府のベトナムのカンボジア侵攻に関する声明」で、このプノンペン解放をベトナムによる「新たな大規模な侵略戦争」「狂気じみたカンボジア侵略」「アジアと極東の制覇を目指すソ連の戦略の一環」(注55)だと徹底的に非難した。また『人民日報』の社説の中で「我々の忍耐にも限度がある」と表明し、中国がベトナムと戦争を行う覚悟があることを始めて公に示唆した。また、韋国清(人民解放軍総政治部主任)が南寧において、「軍内での『林彪、四人組批判』の大衆運動を年内でうちきり、ベトナムとの戦争を準備するようにと発言した。」(注56)

 78年12月16日、中国はアメリカとの会談で、翌年の1979年1月1日から米中の国交樹立するという共同コミュニケを発表した。この「米中国交樹立は、中国指導部のベトナムに対する敵対的姿勢をつよめさせる結果になることは必至であった。」(注57)

 米中の国交樹立が発効された79年1月28日、ケ小平は訪米し、30日、カーター大統領、モンデール副大統領、サイラス国務長官と三人で会談した。その中で「ベトナムに必要な教訓を与えなければならない。」(注58)と示唆した。そして「『ただし、我々はいかなる軽率な行動もとるつもりはない…。唯一慎重な熟慮を経た上でのことである。』しかし『我々は言ったことは必ず実行する。』そして『平和と安定のためには、時として我々はしたくないこともせざるをえないかもしれない』」(注59)と付け加えた。そして、翌朝、ケ小平とカーター大統領は、二人だけで会談した。その中で、ケは「もし軍隊を動かすことになっても、短期間のうちに撤兵することを強調した。そして、この作戦の結果は有益であり、その効果は長期間つづくとも語った。」(注60)

 訪米の帰途、2月6、7日の両日日本に立ち寄り、大平首相と2時間にわたり会談し、ベ トナムに制裁を加える必要があると「より明確にベトナムに対して『懲罰』を加える意思を明らかにした。」(注61)

 ケ小平は、日本から帰国した翌日、数ヶ月にわたって練り上げた「不測の事態に対する計画」について、さらに中央軍事委員会で検討した。その中で、ケ小平の護衛役であった許世友(広州部隊司令官)が、ベトナム侵攻作戦の作戦司令官に任命された。かつて朝鮮戦争で活躍した楊得志(昆明部隊司令官)が国境越えを敢行する攻撃部隊の司令官に任命され、主力部隊18個指師団、地方部隊8個師団が、国境沿いの雲南省昆明軍区、成都軍区に移動した。

2月14日、「兄弟であることを誓言したその中国を敵国となし、ベトナム南北の華僑と華系ベトナム人を狂ったように追い立て、略奪、迫害」「カンボジアの首都プノンペンと領土の大部分を侵略・占領」「中越国境での衝突をたえず挑発」「広西と雲南の国境地帯を攪乱」した「ベトナム侵略者との交渉はもはや限界を越えている」とし、「中共は考慮に考慮を重ねた結果、自衛反撃・国境防衛の戦闘を行い、ベトナム侵略者が当然受けるべき懲罰を与えることを決定した。」(注62)

 中国にとって最大の危険要素であるソ連の報復軍事行動に備えて黒龍江省、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区のソ連国との境地帯の住民は、事前対策として数十万の住民が疎開させられ、学生にも臨戦体制がしかれ、国境警備部隊は、増強された。他方、ベトナム側は、国境の地方部隊5万人が、ディエンビエンフーの戦いで活躍したボー・グエン・ザップ(国防相)とヴァン・チェン・ズン(参謀総長)の指揮下に、国境警備隊を含む地方部隊が編成され、ハノイ近郊には、主力部隊5個師団が置かれた。ベトナム軍は「中国軍に比べはるかに大規模かつ最近の実戦経験をもっていた。」(注63)

 

第2節  中国軍の侵攻と戦況

2月17日未明、出撃待機していた攻撃部隊8万の中国軍が、26の地点で砲撃とともに国境を越え侵攻を開始した。空からの援護を受けながら、中国軍は、戦車部隊、騎馬部隊、歩兵部隊の順で山道を越えた。地雷は手作業で行われ、「攻撃の第一波では、数百人は地雷原の中で死亡した。」(注64)華僑や少数民族などによって道案内を受けた中国軍は、一気に散開し、ベトナム側の要塞を包囲し、総攻撃をかけ攻略した。この戦闘で、数百人が自動小銃で犠牲になった。相当の死傷者を出した中国軍ではあったが、この日の夕方には、幅5キロ〜10キロの地域を占領することに成功した。

 この日、中国は「新華社を通じ、『もしベトナムの侵略行動を予め制止しなければ、疑いもなく東南アジアはおろか全アジアの平和と安定に危険が及ぶ』との判断を下し、『中国辺境部隊は忍ぶべからざる状況の下で、やむなく反撃にでた。』」(注65)と発表した。それによると「過去6ヵ月間に約700件の『挑発事件』が発生し、国境警備隊兵300人以上が死傷した」(注66)という。また、『人民日報』は「一センチたりとも領土を奪う意図はない」「戦争解決のための両国交渉開催を提案を求める」(注67)と伝えた。 ベトナムは、両国交渉が行われるためには、(10年前のベトナム戦争でアメリカに対して行った方式と同じように)まず中国軍の撤退が先だとし、直ちに侵略戦争の停止とベトナムからの部隊の撤退を要求し、両国交渉の提案を突っぱねた。

侵攻の1日目で占領した地域を基に、翌日から2日間は、激戦で損害の多い部隊を新しい部隊と入れ替え、補給物資の調達をしつつ、前線地点に塹壕を掘った。4日目になると、中国軍は前進を再開し、6つの戦線を展開した。6つの戦線は以下の通りであった。

1:最西部の国境地帯のライチャウ近くで、黒河(ソンダ川)を横断する道路沿い。 ラオスからディエンビエンフー経   由の物資補給路を切断。
2:紅河(ホンハ)沿いのラオカイから、ハノイの北西12km空軍ミサイル基地に至る 鉄道沿い。
3:明江(ミンロ)沿いにハザン、その下流のデルタ地帯の道路
4:カオバン経由タイグエンからデルタ地帯の道路
5:革命勢力に対する最も重要な供給ルートであった南寧からの最短の友誼関を経て ランソンにいたる幹線道路最  重要部隊)
6:トンキン湾沿いのモンカイ(最大の港、ハオフォンへ通じる)

 1〜3の戦線は「ベトナムの中心部から相当離れており、このため特にベトナム軍に対する牽制を意図した陽動作戦とみられた。」(注68)よって、この戦線で中国軍は、最小限の抵抗にしかあわなかった。一方、4〜6の戦線は、首都ハノイに最も近いため、ベトナム軍の抵抗が激しく、中国軍はかなりの敗北を被り、それどころか、ベトナム軍は、国境を越えて中国軍が出撃した基地に到達した場合もあった。戦闘は膠着状態に入った。

 これまで、中国軍はベトナム国境警備隊、地方軍、民兵としか遭遇しなかったが、更にベトナム領内奥深くへ侵入してはじめて、ハノイ周辺に配備されていた重装備の正規軍5個師団と遭遇し、交戦した。ベトナム軍よりはるかに多数の兵力を持っていた中国軍は、装備面で劣っていたが、「約10日後、ライチャウ、ラオカイ、ハジャン、カオバンの4省都を陥落させた。」(注69)

 中国は、国境の町に攻略に留めなければ、無制限な紛争拡大の危険性(同時に、ソ連の中国への報復軍事行動を意味する)があるため、「山岳部の国境地帯を攻略する戦闘を継続すること、そして平野部を威嚇することができる主要地点すべて制圧されるまで戦闘を拡大すること」(注70)という決定を下した。そうすることによって「ベトナム側は抵抗を強め、正規軍を投入せざるをえなくなろう。そこでかれらは厳しい『教訓』を学ぶことになろう。」(注71)と中国は期待した。

 その結果、中国軍の攻撃は、国境から15キロ、首都ハノイから約120キロ先にある軍事上の要衝である地方都市ランソンに集中することになった。民間人は疎開し、重砲を装備したベトナム正規軍が前線へ向かった。ハノイから精鋭部隊が空輸され、ランソンの守備体勢の増強のため、ラオス、カンボジアからベトナム軍(3万〜4万人)が集結した。しかし、2月27日、重要な砲撃陣地であるカウマソンの丘(この陣地の長距離砲は、国境から平野部を射程域におさめ、大部隊を殲滅できる能力があった)の攻防戦で、ベトナム軍は、ハイフォンからの援軍が間に合わず防衛に失敗した。

 これを受けて「ベトナム党中央委は『反動的な中国の侵略者たちに対する抵抗戦争』が開始されたと発表した。『全土が戦場である』がそのスローガンであった。」(注72)「全国総動員令」が発令され、すべての成人に対して銃火器の支給、軍事訓練が開始され、学校が閉鎖された。中国軍の首都攻略に備えて、ハノイの町を取り囲むように、防衛線が4万人の市民によって掘られた。

 3月5日、中国軍は激戦の末、ランソンを陥落させ、占領した数時間後に、中国政府は「予定の目標を達したむねの発表を行い、同時に、撤退をただちにはじめた。」(注73)中国軍の撤退が実際に始まっているとことが確認されると、ベトナム共産党紙『ニャザン』は「『輝かしい勝利』が達成された。ベトナム人民、軍、そして強力な世界の非難の猛烈な抵抗に直面して、北京の支配グループは中国軍のベトナムからの撤退を宣言せざるをえなかった。」「中国の反動主義者によるベトナムに対する軍事的冒険は失敗した。かれらは、高い犠牲を払って教訓を学んだのである」(注74)と伝えた。また、ベトナム軍機関紙は「中国は『多大な損害』をこうむったのち、ベトナム軍を前に敗走したと発表した。」(注75)同時に、中国軍は、一般市民に対して残虐行為があったと非難し、中国はそれに反論し、応酬が続いた。

 

第3節   中国軍の撤退

中国側の発表では、この戦争での死傷者は、中国側2万人、ベトナム側5万人であった。この死傷者の差は「かなりの程度、中国側には市民の犠牲者がいなかったのに対し、ベトナム側には多くの死傷者があった。」(注76)ことによる。

他方、ベトナム側の発表では、中国側の死傷者は、6万2500人であり、中国の侵攻部隊(中国侵攻部隊は以前の米軍よりも大規模で、かつてのフランス軍の4倍にあたる60万人)の一割にあたるとした。「こうした極めて大きな損害をだしたのは、いわゆる『人海戦術』のためであり、この戦術は自動操縦兵器で容易に撃退することが可能だった。という」(注77)また、住民の150万人が疎開し、ライチャウ、ラオカイ、ハジャン、カオバンの4省都をはじめ、320の町、村が完全に破壊された。

ベトナムは、この中国侵攻の目的の一つを「経済基盤を破壊して、ベトナムの社会主義建設に障害をつくりだす。」(注78)と見ていたが、まさに「中国のベトナム侵攻は報復以外の何ものでもなかった」(注79)といえる。

 この中国のベトナム侵攻によって、中国の期待したカンボジアのポル・ポト政権の復活は実現することはなかった。また、中国軍のベトナムからの撤退と同時に、ベトナム軍をカンボジアから撤退させるという中国の思惑も実現せず、「カンボジア戦線におけるベトナム軍の行動にほとんど支障をきたさなかった。」(注80)それどころか、中国がこの地域の「覇権」を虎視眈々と狙い、国境の外で侵略行為を行いうるという印象を世界に与える結果となった。

 中国軍の撤退後の3月19日、中国とベトナムは外務次官級会議を開いた。中国は、両国の正常な関係回復を国境地帯の安定化を提案した。べトナム側は、その提案を原則的に受け入れたが、会談の前提となる諸条件に反対した。「ハノイが、従来以上に反中感情をむき出しに、中国と対決姿勢をあらわにしえしている理由は、彼等に軍事的敗北の意識がなく、またソ越関係がより緊密になったことを自覚したから」(注81)といえる。

 

第4節 国交正常化と現在

以後10年間、両国の国交が途絶えた。1980年代半ば、ベトナムは、従来の社会主義路線の誤りを認め、経済社会の改革を中心とするドイモイ(刷新)政策を開始し、対外政策もソ連一辺倒路線を見直し、政治制度の相違に関係なく、あらゆる諸国との関係を改善、強化するとの方針を打ち出した。よって、「同じく経済改革に取り組んでいること、開放政策に伴う経済貿易交流の緊密化、さらに社会主義国家プラス発展途上国という同様な立場から西側世界に接近しなければならないことにより、両国間は再び歩み寄りを見せ始めた。」(注82)

 1988年、ベトナムは、憲法の序文から中国非難の言葉を削除し、1989年9月、カンボジア駐留ベトナム軍20万人の全面撤退を国際的に公約した。これを受けて、中国はそれまでベトナムに対しとっていた政治、経済、外交、軍事という「四つの圧力」を加える政策を放棄した。11年ぶりに中国外務次官補が、ベトナムを訪問し、カンボジア問題を中心に会談を重ね、「90年9月3日に、リン書記長、ドー・ムオイ書記長、ファン・ヴァン・ドン元書記長が秘密裡に四川省の省都成都にとび、江沢民総書記と会談した。そこで、中越戦争時の捕虜の交換や国境地帯の非武装化など、国交正常化への基本的条件の整備について大枠での合意が形成された。」(注83坪)

 1991年11月5日、カンボジア問題をめぐるパリ協定が調印され、その直後ド−・ムオイ書記長が公式に訪中し、14年ぶりに関係が正常化した。「中越関係正常化に関する共同コミュニケ」において「善隣友好関係を発展させる」「正常化関係を回復する」と言明した。(注84)両国はその後、党・政府・軍関係者が相互に行き来するようになった。以下90年代の動きを主なものを記す。

1992年 李鵬首相が公式にベトナムを訪問。(1971年の周恩来首相以来21年ぶり)
1994年 江沢民総書記・主席が中国の最高首脳として初めてベトナムを訪問し、関係正常化と友好関係促進を双方で再確認する。
1995年 ド−・ムオイ書記長が再度北京を公式訪問し、鉄道再開のための協議を開始 することで原則合意したことを受け、96年2月両国間の鉄道国際便の再開。
1996年 ベトナム共産党第8回党大会では中国側から、李鵬首相が出席し、また11月には喬石全人代常務委員長がベトナムを訪問。
1999年 朱鎔基首相がベトナムを訪問し、国境交渉の終結で合意し、12月両国の外相が「中越間の陸上国境の画定条約に調印。
(これで1979年の中越戦争で戦火を交 えた両国の1300キロの陸上国境線問題は終結)(注85)」した」。

また、昨年(2000年)は、ベトナムのルオン主席が中国を訪問し、江沢民主席と会談し「中国とベトナムの新世紀の全面的協力に関する共同声明」「北部湾及び排他的経済水域と大陸棚の領海画定に関する協定」「北部湾漁業協力協定」「原子力エネルギーの平和利用協力協定」「新華通信社とベトナム通信社の報道協力協定」に調印した。

 中国は、「東南アジア諸国の中国に対する疑念解消に積極的に動き出し」「『中国脅威論』を和らげ、アメリカが仮に対中包囲網をつくろうとしても不可能にし、経済発展の外部環境を確保し、台湾包囲網をつくり、外交地位の向上にも役立つとしている。」(注86)よって近隣国との安定した周辺環境を構築することは中国外交の柱の一つになっている。中国から見れば、ベトナムとの国境は全国の国境線のわずか数十分の一しか占めないので「中国は全般的な外交戦略の中でハノイとの関係を沿えている。」(注87)

 他方、ベトナムにとって中越国境は死活かかわる生命線であり、中国は、「国家の安全の最重要の『潜在敵』であり、外交関係を良好に保つために最大限の努力を傾注している国である。」(注88)といえ、「両国関係がかつてのホー・チ・ミンのいった『同志プラス兄弟』の雰囲気になるにはまだ程遠い道程がのこっている」(注89)

両国とも社会主義体制を維持しながら経済優先路線をとっている限り、現実的な関係を選択し、再び両国間の関係が悪化することはないと思われる。


おわりに

中越関係という題材でここまで書いてきた。書き進めていくうちに、中国とベトナムだけでは、両国の関係を単純に書けるものでないことが分かった。ソ連やカンボジアを抜きには両国関係は書けないし、アメリカも密接に絡んでいた。「中越関係」という枠の中で、果たして何処まで書いていいのか迷うこと多々あった。「中ソ対立」をもう少し書くべきか?「日米安保と日中友好条約との連鎖性」、「インドシナ連邦」、「ASEANとの関係」、「ラオスとの関連」…と挙げれば切りがなく、途中で筆が止まってしまい書けなくなった。先生に相談しに行った。その問いに対し、「自分自身の判断して、枠を限定して抽出していく過程が大事である」と先生は助言してくださった。この助言で納得して、また改めて書き進めていくことが出来た。

第1章では、かなり昔の歴史を書いてしまったが、これは、第2章以降に続く事象を語る上で必要だと判断してのことである。文化的、地理的な近さゆえに愛憎半ばする状態。その利害関係の歴史が先ず土台にあって、その上に、社会主義国同士の「内ゲバ」と冷戦構造が複雑にからみあって両国関係は展開していったと私は見ている。 中越関係について書いて、「はじめに」で書いたように中国人、ベトナム人のお互いが反目してしまうのは、まだ中越の衝突が終わってまだ20年しかたってないことを考慮すると、至極当然のように思われる。

中国での留学を終えてベトナムへ向かうことにした。しかし、ベトナムから一番近い中国の大都市の南寧には、未だにベトナム領事館がなく(以前はあったが閉鎖された)、旅行代理店を通して広州でビザを取得しなければならなかった。そして、一般の中国人は、国境の町へいくだけでも「辺境許可証」が必要である。

ベトナムへ向かう直前に、中国人から頼みごとをされた。その中国人は、個人旅行でハノイに行きたいそうで、現地の保証人が必要だった。ベトナム人留学生に頼んでみたが、誰も引き受けてくれなかった。そこで便宜上、ベトナム人に書いてもらった書類を、ハノイから中国へ郵送してくれとのことだった。(そうすれば、現地に保証人がいたことになる。)ただ切手を貼ってポストに投函すれば良いだけなので、引き受けた。するとその中国人は非常に喜んでくれて夕飯をご馳走してくれた。その中国人は、私の友達の友達の友達の友達であり、要するに他人であった。そこまで奔走してやっと、車で6時間の隣国へ行く手続きの一部が終了しただけに過ぎないのである。やはり、まだ両国は近くて遠いのかもしれない。

 こんなこともあった。中越戦争の舞台であるランソンからハノイ行きのミニバスに乗った。悪路を延々と走り、やっとハノイ到着すると思ったら、車ごと警察に連れて行かれた。私を除く乗客の全員(おばさん)は中国からの衣料品や雑貨品の運び屋だったのだ。これらは、関税を払わないで違法に持ち込んだ密輸品であった。(私も危うく一緒にされるところだったが、幸い警察が中国語を話せたので事なきを得た。)結局、押し問答の末、警察に賄賂を払って半分を取り返してもらっていた。その密輸品は、ハノイ近郊の幹線道路沿いの店で取引された。そこには、同じような運び屋が沢山いて賑やかであった。これも安い中国製品の需要があるからである。実際、ハノイの町を歩くと、中国製品を多く見かけた。外国人向けのCD屋へ入ると、その大半は、中国で売っている海賊版CDであった。 このように、政治的には、まだ遠い感じがするが、経済的には、両国の関係は密接であることを実感した。   


追記

中越、5月に交戦 共同 02年7月17日
【ハノイ16日 共同】 ハノイの東南アジア諸国連合(ASEAN)外交筋は16日、中国とベトナムの治安部隊 が5月始めに国境地帯で交戦し、双方に計6人の死傷者が出たことを明らかにした。 同筋が中国側から得た情報によると、5月4日、中国雲南省武装警察総隊の隊員が麻薬犯罪グループをを追跡、国境を100メートル越えベトナム・ラオカイ省ムオンクオン 地区に踏み込んだ際、ベトナム公安要員との間で銃撃戦が発生。中国側の1人が志 望、2人が負傷した。ベトナム側も3人が負傷した。ベトナム側は、中国側による意図 的な国境侵犯とみて捕虜4人を6月2日まで抑留したという。

中国、ベトナム両国は、両国首脳が昨年11月から今年2月にかけて相互訪問した際 に確認した友好関係強化の維持を優先させるため、今回の交戦を「偶発事件」として処理。対外公表も避けているが、両国間の国境策定作業にも支障がでそうだ。

交戦について、ベトナム外務省は「根拠がない」と否定したが同国の警察専門紙 は、 5月6日に同地区で公安要員が「麻薬犯」と銃撃戦となり要因3人が負傷したと報じて いる。

 同筋は「今年31日からブルネイで開催ASEAN地域フォーラム(ARF)閣僚級会議にベ トナムのレ・コン・フン外務次官が欠席すると聞いた。対中問題の処理で多忙と思わ れる。両国国境の標識設置も異常に遅れている」と語った。 両国は1999年末に調印の陸上国確定条約に基づき「3年間で計1500の標識が立てる」 (ベトナム外務省ファン・トゥイ・タイ報道局長)ことを計画している。

 

中越国境で銃撃戦 5月麻薬密輸追撃で越境 朝日02年7月18日
【バンコク17日=木村文】 ベトナム人民軍筋によると、中国とベトナムの治安部隊が5月始めに国境地帯で交戦 し、双方に7人の死傷者が出た。ベトナム側が麻薬の密輸団を追撃している最中の出来事、両国とも偶発的な事件として処理することに合意しているという。

 同筋によると、交戦があったのはベトナム北部ラオカイ省の中国との国境。ベトナム治安部隊が越境した密輸団を発見し追跡したところ、中国側の部隊から発砲があっ た。ベトナム側は反撃し、中国側の1人が死亡、双方で6人が負傷した。この際、中国 の部隊は国境を約100メールと越えたという。

 ベトナム治安当局は当初、意図的な国境侵犯の疑いもあるとして中国側の数人を拘束 した模様だが、数週間に及ぶ交渉の末、中国側が越境の事実を認めたため釈放したと いう。

 両国は99年から00年かけて、南シナ海を除く領土・領海の画定に合意。首脳の相互訪 問など友好関係の強化に努めているが、事件後の6月にはベトナム政府が中国軍によ る南シナ海での実弾射撃演習に抗議していた。

コメント
共同通信が第一報で後追いとなった形の朝日。併記しておきました。二つの記事を総合すると最初、ベトナムの治安部隊に追跡された麻薬犯罪グループが国境を越え、中国側へ。今度は、中国の武装警察の追われ、再びベトナム側へ。その時に中国側の武装警察も一緒にベトナムへ入って交戦状態になったということだろうか?強引に(?)他国の領土へ侵犯するこの手法は、瀋陽の領事館の事件を思い出してしまう。両記事ともベトナム側からの情報なので、「中国側が越境の事実を認めた」となっているが、中国側の言い分はどんなものだったのろう。


注釈


注1 坪井善明『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』岩波新書 1994年 p.15
注2 同上p.16
注3 同上p.17
注4 『地球の歩き方ベトナム編 98・99版』ダイヤモンドンド・ビック社1997年p.260
注5 ヤープ・ファン・ヒネケン 『インドシナ現代史 上』連合出版 1985年 p.27
注6 同上p.27
注7 同上p.28
注8 同上p.28
注9 同上p.29
注10
吉田元夫 『ベトナムから見た中国』  日中出版 1979年p.24
注11 太田勝洪・朱建栄編『原典中国現代史 第6巻 外交』岩波書店 1995年 p.64
注12 鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年p.31
注13 吉田元夫著 『ベトナムから見た中国』  日中出版 1979年 p.24
注14 太田勝洪・朱建栄編『原典中国現代史 第6巻 外交』岩波書店 1995年p.124
注15 鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年p.33
注16 同上p.33
注17 同上 p.33
注18 太田勝洪・朱建栄編『原典中国現代史 第6巻外交』岩波書店 1995年 p.121/122
注19 鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年p.35
注20 同上 p.36
注21 吉田元夫著 『ベトナムから見た中国』  日中出版 1979年 p.21
注22 鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年 p.39
注23 同上p.43
注24 同上p.47
注25
同上p.47
注26 同上p.60
注27 同上p.60
注28 同上p.73
注29 同上p.75
注30 太田勝洪・朱建栄編『原典中国現代史 第6巻 外交』岩波書店 1995年 p.172
注31 鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年p.80
注32 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年 p.12
注33 鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年p.80
注34 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年 p.22
注35 同上p.22
注36 同上p.15
注37 同上p.15
注38 同上p.16
注39 鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年p.56
注40 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年 p.16
注41 鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年p.41
注42 同上p.113
注43 旅行人編集室編『旅行人ノート3 メコンの国 改訂版 』旅行人 1999年p.31
注44 鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年p.126
注45 同上p.131
注46 同上p.129
注47 同上p.90
注48 吉田元夫 『ベトナムから見た中国』  日中出版 1979年p.48
注49 坪井善明『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』岩波新書 1994年 p.21
注50 小笠原正明 『外国学研究XI』興文社 1980年 p.38
注51 坪井善明『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』岩波新書 1994年 p.22
注52 小笠原正明 『外国学研究XI』興文社 1980年 p.52
注53 吉田元夫 『ベトナムから見た中国』  日中出版 1979年 p.55
注54 同上p.56
注55 太田勝洪・朱建栄編『原典中国現代史 第6巻 外交』岩波書店 1995年 p.175
注56 吉田元夫 『ベトナムから見た中国』  日中出版 1979年 p.56
注57 同上p.53
注58 同上p.57
注59 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年p.145
注60 J・カーター著『カーター回顧録 上』日本放送出版協会 1982年 p.323
注61 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年p.146
注62 太田勝洪編 『中国共産党最新資料集 上巻』 勁草書房 1985年 p.50
注63 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年p.147
注64 同上p.151
注65 小笠原正明 『外国学研究XI』興文社 1980年 p.40
注66 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年p.153
注67 同上p.153
注68 同上p.152
注69 坪井善明『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』岩波新書 1994年 p.24
注70 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年p.164
注71 同上p.164
注72 同上p. 166
注73 坪井善明『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』岩波新書 1994年 p.24
注74 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年p.167
注75 同上p.168
注76 同上p.170
注77 同上p.170
注78 吉田元夫 『ベトナムから見た中国』  日中出版 1979年 p. 57
注79 ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史 下』 連合出版 1985年p.170
注80 小笠原正明 『外国学研究XI』興文社 1980年p.42
注81 同上p.42
注82 朱建栄『江沢民の中国 内側から見た「ポストケ小平」時代』中公新書1994年p.188
注83 坪井善明『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』岩波新書 1994年 p.26
注84 太田勝洪・朱建栄編『原典中国現代史 第6巻 外交』岩波書店 1995年 p.256
注85 毎日新聞 1999年12月30日
注86 朱建栄『中国2020年への道』 NHKブックス 1998年 p.179
注87 朱建栄『江沢民の中国 内側から見た「ポストケ小平」時代』中公新書1994年p.190
注88 坪井善明編『アジア読本 ヴェトナム』 河出書房新社 1995年p. 162
注89 朱建栄『江沢民の中国 内側から見た「ポストケ小平」時代』中公新書1994年p.190


参考文献一覧


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『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』 鹿沢武著 教育社 1978年
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『中央公論 四月号 〜緊急特集 中越戦争と日本〜』
伴野朗著「中国の尻尾・ベトナムの尻尾」
永井陽之助・中嶋嶺雄・矢野暢 座談会「覇権の連鎖反応」 中央公論社 1979年


 

 

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