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◎11月25日(月) (13日目)
 シディブ・サイド→カルタゴ→チュニス→パリ(機中泊)
 
●シディ・ブ・サイド
 観光もいよいよ最終。白とブルーの町、シディブ・サイドとカルタゴを観光してから帰国の途につきます。朝食時、旅行中に親しんだMAGOワインをお土産にと買う人もいました。
 8:35、シディブ・サイドへ。曇り空で風が強いのですが、初冬の沿道はキョウチクトウやブーゲンビリア、ハイビスカスなどが競演中です。

●白い町は条例で
 シディブ・サイドはチェニスから北東に17km、地中海に面した丘陵の町。
 建物は町の条例によって白壁にブルーの窓枠を推奨されています。その美しさに惹かれて年に500万人以上の観光客がヨーロッパなどから訪れるそうです。

●ブルーの扉
 町に入って目につくのが各家の扉。ブルーに塗られた扉に鉄鋲で三日月や星、アラベスク、ファティマの手、モスクなどの幾何学模様がデザインされています。扉は四角とアーチ型。数の上ではアーチ型が断然多そうです。
 扉を囲む壁には花の浮き彫りがさりげなく施されていたり、白と黒に縞模様が描かれていたりして表札代わりにもなっています。

少数派
 もちろん模様のない扉もありますが、これは少数派。
 鉄鋲模様の扉はこれまでにも目にしました。それは町の中で1、2軒見かけるか、、あるいはホテルの装飾扉でした。軒並みといえるほどの数がそろうと美観に値します。

●有名なカフェ
 様々なデザインに目を奪われながら坂道を上ると、正面の高台に有名なカフェ・デ・ナットがありました。世界で最古級のカフェで、有名作家や芸術家たちが好んで訪れた憩いの場所と評判の店です。
 オフシーズンなので開店準備中でした。夏場は記念にお茶をする観光客がわんさと訪れて順番待ちになると聞きました。

●白壁の家並み
 静かな通りのあちこちで若い男女がスケッチに余念がありません。建築学を専攻している大学生の課外授業でした。車が1台やっと通れそうな路地をあちこちと辿ってみました。
 通りの奥深くまで白壁の家並みが続きます。大小問わずブルーに塗られた格子の窓枠、そして幾何学模様の扉。それだけではありません。門灯やテラスの手すり、壁以外は何から何までブルー。よくもこれだけ統一されたものだと感心させられます。

●白壁の町に異彩

 白壁には赤やピンクのブーゲンビリアが絡まっています。絵になる風景ですが、あいにくの曇り空。チュニジアン・ブルーと白壁が真っ青な空に調和する「チュニジアで最も美しい風景」はイメージの中におさめました。
 白壁の家並みに黄色い扉の建物が忽然と現れました。扉の周りには白と黒色の縞模様アーチ。何か訳があるのでしょう。異彩を放つとはこのことでした。

●モスクも真っ白

 モスクも真っ白。尖塔は曇り空に飲み込まれてしまった感じですが、窓枠のブルーは鮮やかさを保っています。チュニジアのモスクとミナレットは、その地域の特色が活かされていて、なかなか楽しいものです。
 陶器の町、ナブールはセラミックタイルをふんだんに使った色鮮やかさが際だっていました。砂漠地帯のカイラワンやトズールでは日干し煉瓦、ジェルバ島では白いモルタルが主流でした。

●徹底の美学

 地中海を見下ろす墓地に行儀良く並ぶ墓も真っ白。商店の雨戸はブルー。日本の観光都市でも建物の色彩を統一しようとの試みが進められる昨今ですが、これほどの徹底ぶりは見聞したことがありません。
 「徹底の美学」をたっぷり見せてもらって最後の観光地、カルタゴへと向かいました。

●カルタゴ 
 カルタゴにはすぐに到着。チェニス郊外の高級住宅地として開発が進んでおり、大統領官邸や官庁、外国の大使公邸などが集まる新興都市です。住宅地の中にローマ時代の遺跡が点在していますが、フェニキア人が栄華を誇った古いカルタゴの遺産はほとんど見られません。 
 タニト神の聖域といわれる場所があります。トフェの墓と呼ばれ、ローマ以前のカルタゴの面影を偲ばせる数少ない遺跡です。カルタゴの観光はトフェの墓からスタートしました。

●カルタゴ小史
 カルタゴといえば、だれもが真っ先にローマと壮絶な戦いを繰り広げたポエニ戦争、ゾウ部隊を引き連れてアルプス越えをした猛将ハンニバルを思い起こしますが、町の歴史は2800年も前に遡るのです。
 紀元前814年に海の遊牧民といわれたフェニキアの王女、エリッサが町を造ったのが始まりとされます。その後は海上貿易や農業の振興で繁栄を極め、地中海の覇権を争ってローマと戦うまでになりました。

●交易で繁栄
 エリッサは父の死後、権力抗争に巻き込まれ、財宝を船に積んで現在のレバノンから逃亡。仲間の貴族らとともに海上をさまよった挙げ句、キプロスを経て、この地に着いたといわれます。
 その後、得意の航海技術を駆使した海上貿易で見る見るうちに大国にのし上がりました。カルタゴの勢力拡大を敵視したのがローマ軍。紀元前264年から地中海の覇権、特にシチリア島の権益を巡ってローマ帝国と対決したのが、あの有名なポエニ戦争です。

●ポエニ戦争
 紀元前264年に火蓋を切ったローマ軍との戦いは146年までの間に3次にわたる死闘を繰り返し、ついにはローマ軍に破れて滅亡しました。
 戦歴はイタリア・シチリア島内での内紛をきっかけに始まった第1次戦争で敗北。紀元前247年からの第2次戦争では猛将ハンニバルがゾウ37頭を引き連れてアルプス越えをしてローマ軍の不意を突くなどの武勲をたてました。しかし、身内の裏切りなどもあって敗退。

●3度の決戦
 不死身のカルタゴは3度目の戦いを挑みましたが、徹底的に打ちのめされて滅亡にいたりました。
 ローマ軍は不屈の復興に恐れをなして、農業が出来ないようにと、当時としては貴重だった塩を地面に撒いたほどだったといいます。 

●100年後再建
 それから100年後の紀元46年からローマの植民都市として再建が始まりました。2、3世紀には多くの施設が建造されてローマ、アレキサンドリアに次ぐローマ帝国第3の都市にまで復興。 
 しかし、7世紀になるとアラブ人が侵攻し、北アフリカの中心はカイラワンへと移り、カルタゴは歴史の舞台から消え去りました。

●トフェの墓

 前置きが長くなりましたが、トフェの見学です。ローマ時代以前の墓場には、火の神であるバール・ハモン神、カルタゴの守護神であるタニト神が祀られていました。
 墓場の草むらに数多くの石造墓碑が残っています。よく見ると幼児の姿を彫ったもの、タニト神を彫ったものも。幼児は生け贄にされた子供たちを悼んだものと思われます。

●幼児生け贄

 墓のそばの穴蔵にタニト神のサインだという小さな石柱が立っています。少し離れたところには、生け贄を捧げた台座が。中央にバール・ハモン神、左にタニト神、右にイシュモン神の像が祀られていたそうですが、崩壊して影も形もありません。
 ここでは男の幼児が神への生け贄にされました。のどを切り裂かれ火中に放り込まれたといわれます。無惨なことですが、ポエニ戦争で資料が消滅したため本当のところはわかっていません。

●古代カルタゴの港
 倉庫群が並んでいた古代カルタゴの商業港を車窓から眺め、軍港で写真ストップしました。当時は200隻以上の艦船を係留した軍港。目の前にあるのは、ため池同然でした。
 造船所があるはずです。それを尋ねたら、ガイドは「それはあっちの方角です」と指さしただけ。下車した場所が「ハンニバル通り」。古ぼけた標識がありました。

●納骨の石棺
 次はアントニウスの共同浴場へ。入り口近くのナツメヤシの並木道に小さな石の箱が並んでいます。これは生け贄にされた幼児の遺骨を納めていた棺。並木道は当時の幹線。延長110kmでドゥッガまで続いていました。
 並木道を抜け、ローマ時代の民家跡を通り過ぎると、地中海を背景に建つ共同浴場が見えてきました。左手の白い建物は大統領官邸。「カメラを向けないでください」との注意がありました。

●アントニウスの共同浴場
 高さ15mのコリント式円柱がひときは目立ちます。その下にはいくつもの穴があいた建物。ローマ5賢弟の1人、アントニウス・ピウスによって2世紀に建設された公共浴場です。古代ローマでは3番目の規模を誇っていました。
 当時は2階建てで、八角形の温浴室やサウナ、プール、運動場など100以上の部屋が左右対称に並んでいたといいます。浴槽は男女別々で、それぞれに入り口がありました。

●観光疲れ
 中に入っていくつかの部屋をのぞき見しました。浴槽の水はザグアーン山から水道橋を流れ、いったんラ・マラガの貯水池に集められた後に給水されました。
 ちょっとアングルを変えて写真を撮ろうとすると、大統領官邸が目に入ります。人工衛星が地上の施設をつぶさに映し出す時代。外観だけの撮影すら禁止というのは、時代遅れなのでは?。
 そんなことを思いながら周辺をうろうろしましたが、正直なところローマ遺跡の観光にも疲れました。大ざっぱにひと巡りして切り上げました。

●モザイク別荘
 場所を変え、ローマ時代の住居跡を眺めながら坂道を辿ると、丘の上にヴェリエール家の別荘跡というのがありました。
 地中海を見下ろす中庭からの風景もさることながら、床に敷き詰められたモザイクが圧巻でした。ネプチューンをはじめ、クジャクや鹿、鳥などが鮮明に描かれています。

●ビュルサの丘
 観光も大詰め。カルタゴの中心だったビュルサの丘に上りました。コリント式円柱の柱頭部分を野外展示した展望台があります。そこからは古代カルタゴの港周辺が一望できます。同じ目線ではとらえられなかった軍港の様子がちょっぴりながらわかりました。
 眼下の斜面にはローマ人の住宅跡。当時は2階から6階建ての住宅が密集していたそうです。貯水池のそばに住んだのはリッチな階級でした。

●カルタゴ博物館
 最後は丘にあるカルタゴ博物館へ。1890年に神学校を改造し、カルタゴからの出土品展示館として開館しました。
 入り口に四季を表したモザイクがあり、1,2階にローマ時代の彫刻やコイン、陶器、オイルランプ、石棺などが展示されていました。

●サン・ルイ教会
 丘にはもう一つサン・ルイ教会が建っています。大聖堂は1890年にフランスが建造しました。
 教会が建つ周辺は第3次ポエニ戦争の悲劇の舞台。市民5万人が籠城して8日間の市街戦を挑みました。結果は無惨な敗北。町は17日間燃え続けて高さ1.5mほどの灰に埋まり、生き残った者は奴隷として売買されました。

●水道橋の終着
 カルタゴには他にもローマ劇場、円形闘技場などが残されていますが、今回はパスします。近くのレストラン「フェニックス」で昼食。一行がそろって食事するのもこれが最後になりました。
 レストランのそばに水道橋が延びています。ザグアーン山から延々と流れてきた水が終着を迎えた場所です。これまでの旅行を振り返りながら感慨深く眺めました。 

●重量オーバー
 昼食をすませてチュニスのカルタゴ空港へ。20分で到着し、ガイドとドライバーにお別れ。個人でチェックインするので、各自がスーツケースを計量してもらいます。たっぷり土産を買い込んだ女性たちのスーツケースは30km前後がずらり。職員はにやにやするだけで大目に見てくれました。
 16:50、エール・フランス航空のパリ行きAF2485 便は曇り空に向かって飛び立ち、2時間でシャルル・ドゴール空港に着陸しました。

●いよいよ帰国へ
 成田便まで3時間ほどの待ち合わせの後、23:00、エール・フランス航空の成田行きAF274便に搭乗しました。
 乗務員が満席の機内を巡回して人数を確認。23:40、乗り継ぎの2人を待つため離陸が遅れているとの機内放送が流れました。



◎11月26日(火) (14日目)
 パリ→成田

●ボージョレ・ヌーボ
 0:30、AF274便はやっと離陸。

       《以下、8時間進めて日本時間で表記》

 成田までは9660km、到着予定19:36です。間もなく機内食。スチュワーデスが勧めてくれたボージョレ・ヌーボを飲んでみました。きりっとしまった味に感じました。
 いつものようにうつらうつらを繰り返しているうちに成田に着陸しました。19:35でした。帰宅の国内線には間に合いません。空港近くのホテルで後泊です。自分たちだけかと思ったら秋田、長野、新潟からの参加者も同じでした。

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