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◎6月20日(金)晴 (7日目)
 シナイヤ→ブカレスト→国境→ヴェリコ・タルノボ泊

●シナイヤ
 夜明けから立ちこめていた霧が晴れて、真っ青な空が広がってきました。朝食の前に周辺を散策。ひんやりした空気を楽しみながら山の手通じる坂道を辿ったり、メイン通りを彷徨ったり。
 シナイヤはカルパチア山脈の中でも奇岩で知られるブチェジ山(2507m)の中腹、標高800mの高地にあります。人口は1万6000人。かつてはブカレストの貴族や富裕階層の別荘地として栄え、そのころに建てられた宮殿風の別荘は、いまも町のあちこちに残っていて避暑客やスキー客の宿泊用ヴィラに利用されています。

●競って別荘
 ホテルからちょっと歩いただけでもクラシックな豪邸が目に入ってきます。シナイヤが町としての体裁を整えたのは19世紀になってから。国王・カロル1世が夏の離宮を建てたのが契機になって、貴族たちが競って別荘を建てました。それまでは17世紀に建造された僧院があるだけの辺境だったのです。
 町には屋根に特徴のある伝統的な民家も見かけます。「古色にして新鮮な風景」が散りばめられた町、というのが感想です。ちなみに、シナイアの名は僧院がエジプトのシナイ山に建つ教会と交流があったことからつけられたそうです。

●カルパチアの真珠
 小さな町です。少し脚を延ばせばすぐにはずれに出てしまいます。ブカレストの北約130kmという地の利もあって、保養客が絶えないそうで、大きなホテルが保養地を証明しています。
 町を観光する予定がないので、1時間ばかりの散歩は「カルパチアの真珠」と呼ばれる風光明媚を体感できる貴重な時間になりました。
 
●生真面目な説明
 8:40、ブカレストへ出発。今日はドナウ川を渡って国境を越え、ブルガリア入りします。ガイドは予定していた説明を消化しようと、さっそくルーマニア事情の続編を開始しました。例によってノートを睨めっこしながらの生真面目な説明です。
 ・昨年、日本に出かけたルーマニア人は3000人。飲食店従業員としての出稼ぎが多い。一方、国内に住む日本人は730人。
 ・人口2200万人の国内で、車の所有台数は500万台。ガソリンは1リットル2500レイ。
 ・進出企業はアメリカ、オランダ、イタリア、韓国などの自動車やコンピューター関連企業。日本企業は隣国ブルガリアに多く、ルーマニアでは少数派。
 ・兵役は20歳以上の男性に義務づけられている。 大学卒業者は半年間、高校卒業者は1年間だけ。
 ・ルーマニアは入院する人が多い。昨年は700万人で国民の30%にも。それは国営病院と医院が無料なため。ただし、 1990年後に開設した個人医院は有料。
 ・義務教育期間の10年間は授業料が無料。大学進学者はまだ少ない。

●ヒマワリ騒動
 車窓に流れる風景は今日も広大な農地。5分咲きのヒマワリ畑が現れて、マリウスさんの説明どころではなくなりました。その後も次々に登場します。カメラを構える者、「それ来た、来た」と畑の接近を知らせる者…。
 自分に課した宿題をこなそうと懸命に説明を続けるガイドには気の毒な状態になってしまいました。9:40、ガソリンスタンドで休憩のために停車して、やっと騒ぎは収束。 

●緑と平野
 短期間のルーマニア滞在でしたが、緑と平野の多い国というのが強烈な印象です。車窓には主要生産物の小麦、トウモロコシ、野菜、果実、サトウキビ、植物油採取のヒマワリ、菜の花、などなどの広大な畑が途切れることがありませんでした。
 農地と都市部を除けば緑、緑、緑…。住宅も緑の中に埋没しています。枝を伸ばした街路樹のそばを馬車がとことこ行き交う風景を何度も目にしました。牧歌的な風景が居心地の良さを体感させてくれる国、それがルーマニア。

●工業生産も活発
 田園風景にばかり目が向きがちですが工業も盛ん。総生産の50%を工業が占め、農産と林業はその半分にすぎません。石油の生産は世界7位だし、天然ガス、石炭、鉄、塩、大理石、非鉄金属、銀、金 なども産出しています。 
 1989年の革命の後、国営工場が民営化され、生産活動が活発になって鉄鋼や家具のほか、石油を原料とした石油化学製品などが重要産業として経済を支えています。 

●農村博物館
 バスはブカレストの郊外にある農村博物館でストップしました。日程にはなかったのですが、時間の余裕ができたというので立ち寄ってくれたのです。 
 博物館はルーマニア各地から移築した農家や教会などを展示している野外博物館。茅葺きの立派な事務所で撮影料5万レイを払って入場。広い敷地にこれまで見てきた井戸や木彫の門、茅葺きの家が点在していました。

●各地の建物
 大きな屋根に押しつぶされそうな農家をはじめ、曲がり屋風、高床式、半地下式、白壁にトタン屋根など地方色豊かな家が一堂に会する様は、愛知県犬山市にある明治村を思わせます。
 館内には木造の教会や風車もあり、18世紀から19世紀にかけての建造物300棟ほどが展示されています。木陰で民族衣装の女性歌手の録画撮りが行われていました。  

●凱旋門
 11:30、首都・ブカレストへ戻ってきました。まず、凱旋門で写真ストップ。天辺に国旗をはためかせる門は、1919年に第1次世界大戦の戦勝記念として建てられたものです。
 高さは27mあって見上げるばかり。これでもパリの凱旋門よりわずかに小さいそうです。先輩に敬意を表して遠慮したのかも知れません。最初は木製でしたが、1930年に現在の石造りに改修されました。  

●ブカレスト
 凱旋門からマロニエや菩提樹の並木を走って町の中心へ。何事もなかったように車が行き交うブカレストですが、いまから14年前には共産主義国から民主主義の国に転換する凄惨な革命劇が演じられた舞台なのです。現在の人口は230万人で国内の11%が住んでいます。
 カルパチア山脈の南、ワラキア地方に位置し、かつては「バルカンの小パリ」と呼ばれるほどの小粋な町でした。しかし、共産主義体制になってから歴史的建造物は次々に破壊され、根本から造り直されました。だから、車窓からの眺めにも当時の面影を残すものはほとんどありません。

●革命の舞台
 ブカレストが革命の舞台になったのは1989年12月22日。大統領のニコラエ・チャウシェスクが共産党本部のバルコニーから市民に向かって演説中、圧政に苦しむ民衆が暴動を起こして銃撃戦になりました。
 身の危険を感じた大統領は屋上からヘリコプターで脱出しましたが、その後、軍事裁判にかけられて処刑されました。町には革命で犠牲になった大学生などを悼む碑が建っています。

●経済政策で失政
 チャウシェスクは国内の農村部の出身で、1967年に社会主義共和国の大統領まで上りつめた立志伝中の人。高度経済成長をめざして西欧諸国から膨大な資金援助を受けて石油精製事業に乗り出したのですが、2度の石油危機が災いして大赤字に陥って失敗。
 借金返済のために、輸入制限をして国民生活を抑制する政策転換を余儀なくされました。生活を圧迫されて噴出する国民の不満。それを抑えるために独裁的な政策を採る、という悪循環に陥ってしまったのです。

●旧共産党本部
 高まる不満は1987年、ブラショフの労働者暴動にまで高まり、それがきっかけとなって各地に拡大し、ブカレストを舞台にした独裁政治からの解放を叫ぶ革命に発展しました。
 故チャウシェスク大統領が最後に演説した旧共産党本部は町の中心部の革命広場にあります。石畳の広場を取り囲むようにホテルや共和国宮殿、大学図書館、宮廷劇場、銀行などが建っていました。 

●革命の舞台
 革命の凄惨な映像はテレビでも放映されたので記憶に残っています。その現場に立つと当時の映像が生々しく蘇ってました。国内には現在、5000人の共産党員が残っているそうです。
 「牛乳1リットル買うのに3時間も4時間も並びました」、「秘密警察になった神父もいました。優しい顔をして市民の情報を共産党に内通していたのです」、「妊娠中絶の女性も大変な目に遭わされました」。広場に立ったガイドは共産党時代の庶民の生活ぶりをとつとつと語り、聞かせてくれました。

●国民の館
 革命の一端に触れた後、ブカレストで最も有名なのに、国民にはまったく人気がないという「国民の館」へ。「独裁者チャウシェスクが自らの野望と欲望を満たすために建てた宮殿」と言われるところです。
 700人が設計に関わったという豪邸は、両翼を広げた怪鳥が首をもたげているように見えました。米・ワシントンの国防総省(ペンタゴン)に次ぐといわれる規模。「さもありなん」と納得させられる巨大な外観です。

●チャウシェスクの野望
 館は1983年に着工。革命が勃発したときは完成までにあと1歩という段階。ですから巨額の血税を浪費した野望の館にチャウシェスクが住むことはありませんでした。建設費は日本円にして1500億円ともいわれますが、半ば強制的な労働奉仕もあるので正確な数字はつかめないそうです。
 撮影料9万レイを払い、やや厳しい手荷物検査を受けたあと、男性職員の案内で赤い絨毯を踏みまし。36本の円柱が並ぶ長さ150mの名誉の通路。マホガニーなど国産の材木をふんだんに使った装飾が目を奪います。

●豪華な装飾
 会議室だ、劇場だ、音楽室だ、と案内される部屋は、その一つ一つがばかでかく、大ホールは総面積2200平方mもあります。それらの部屋は天井や壁、窓枠が金で飾られたり、壁や柱は白、赤、ピンク、ベージュなどルーマニア産の大理石で彩られています。
 公開されているのはごく一部ですが、3000近い部屋がこんな調子だといいます。建物全体が税金を湯水のように注ぎ込んだ証で埋め尽くされているわけです。

●カーペット
 敷き詰められている絨毯も大変なもの。重さが3、4トンもある手織りのカーペットが惜しげもなく広げられています。緞帳(どんちょう)も然りです。 
 建設にまつわる逸話も多く、例えばチャウシェスク夫妻の意に添わない部屋があれば、完成間近でも一からやり直しを命じられたそうです。

●シャンデリア
 各部屋を飾るシャンデリアも豪華絢爛。大きいものだけで2万8000個もあり、エレベータは49基。清掃の女性だけで230人とか。
 全館の電灯をつけたら30万人の消費量に相当するとも。当時、市民たちは頻繁に起こる停電に悩まされていたというのに…。

●菩提樹の大通り
 2階の音楽室のテラスから真っ直ぐに延びる大通りが望めます。これもチャウシェスク野望の所産。菩提樹の街路樹が茂る通りは、国民の館を起点にした延長4km、幅110m。パリのシャンゼリゼ通りを真似てつくられたといわれます。
 実際は距離が足りず、幅が広くなりすぎたようですが…。野望の中でこの通りだけは市民生活に密着していました。

●やっと全景
 チャウシェスク夫妻の桁外れの贅沢ぶりを見聞しているうちに、何だかばかばかしくなってきました。正面からは大きすぎて全景が撮れません。「撮影できる場所へ移動しましょう」というガイドの言葉に従って憲法広場へ。
 道路を隔てた場所に立って、やっと28mmレンズに全景がおさまりました。それほどの怪物なのです。最近は国際会議などに利用されることもありますが、血税を私利私欲のために使われた市民たちには、いつまでも好きになれない負の財産になっています。

●中華の昼食
 寒々とした気持ちになって昼食会場の中華料理店へ。円卓テーブルがある本格的な飯店です。辛みスープ、野菜炒め、上海風肉炒め、魚の甘酢風味、鶏肉の唐辛子炒めなど。ルーマニア風の味付けでしたが、久しぶりの中華料理はなかなかの上出来でした。
 食後、慌ただしく国境へ向かいました。生真面目ガイドのマリウスさん最後の仕事は注文を受けていたクリームの配分と代金徴収。ドルとレイをごちゃ混ぜの支払をする人もいて、ややこしい計算に汗を流していました。

●出国手続き
 15:50、国境に到着。ガイドが出国税を払って手続きをする間、バスから降りて待機。2時間は待たされるといわれていたので覚悟はできています。先着のバスも手続き中。40人前後が同じように辺りをうろうろしていました。
 それぞれに残ったレイを使い果たそうと、売店に出かけてアイスクリームやキャンディーを買っていました。

●国境のドナウ川
 16:20、全員戻るように言われてバスに乗り込むと、係官が先ほど回収したパスポートを1人、1人に返してくれました。出国手続きは意外に早く完了。先着のバスより早く、税関はフリーパスでした。ブルガリア側の国境は4km先です。
 ドナウ川に架かる友情の橋を渡りきったらすぐに到着しました。これでルーマニア側のギュルギュからブルガリア側の町、レセに入ったことになります。橋の真ん中が正式の国境でした。

●タイヤの消毒液
 ガイドが全員のパスポートを手に窓口へ。入国、環境税なども同時に納めるそうです。手続きは簡単にすみ、税関も日本人はフリーパスでした。
 バスは水たまりの中をゆっくり進んで、待ちかまえていたブルガリア側のガイドとドライバーにバトンタッチ。水たまりはタイヤの消毒液です。 

●ガイド交代
 17:00、スーツケースを積み替えてマリウスさんとドライバーのアウレルさんは引き上げました。ありがとう。
 これから世話になるガイドはトウマさん、ドライバーはローゼンさん。トウマさんは英語しか話せません。挨拶代わりだといって水と絵はがき、切手がプレゼントされました。

●連日30度超す
 ドナウ川を渡ってブルガリアへ入ったトタンにヒマワリ畑が増えました。ルーマニアではまばらに咲く畑が多かったのですが、こちらは真っ黄色の絨毯を広げています。このところ連日30度を超す真夏日が続いて、一気に開花したようです。
 コウノトリの巣もあちこちで見かけ、空中を優雅に舞う姿も披露してくれます。黄色い花が満開。誰かが「あれ、ミモザよ」と叫びました。南へ下ったことを実感する車窓風景です。

●ブルガリアという国
 ブルガリアはヨーグルト、長寿の国としてルーマニアよりも親近感があります。ヨーロッパの東南端、つまりバルカン半島の東部に位置する共和国で、国土の中央を東西にバルカン山脈が横たわっています。北部にドナウ川が流れ、東は黒海に面して自然に恵まれた国です。
 ルーマニア、セルビア・モンテネグロ、ギリシャ、トルコ、マケドニアと国境を接しています。人口は約800万人、総面積は約11万平方kmで日本の約3分の1程度。首都はソフィアで約120万人が住んでいます。通貨はレバ。

●スラブ系民族
 民族は南スラブ族のブルガリア人が約80%を占め、他にトルコ系10%、遊牧民のロマ人などが住んでいます。言語はブルガリア語。ルーマニアはラテン系民族だったので、ドナウ川を境に民族も言語もがらりと異なるわけです。
 宗教は大多数がブルガリア正教を信仰。ルーマニアと同じようにビザンチン帝国から受け継いだ東方正教を心の支えにしています。

●大まかな歩み
 ブルガリアは681年に先住民のスラブ諸族によって建国されました。中世に入ると、1371年にオスマン・トルコ軍が侵攻し、1396年には第2次ブルガリア帝国の全ての領土がその支配下に陥ってしまい、ブルガリア帝国が消滅しました。その後は19世紀後半までの500年間、トルコの支配が続くことになります。
 露土(ロシア対トルコ)戦争の結果、トルコからの独立を果たし、王制を廃止した後は親ソ国として共産党による社会主義時代を迎えました。
 このようにトルコ、ロシア、その他の近隣諸国との関係から栄華と苦渋の歴史を歩んだブルガリアですが、ベルリンの壁(独)が崩壊した1989年、ジフコフ大統領が辞任して独裁的な共産党支配に終りを告げました。現在は民主化、市場経済化政策への道を歩んでいます。

●世界遺産
 ブルガリアは小さな国ですが、世界遺産は9つもあります。ボヤナ教会、マダラの騎士像、イヴァノヴォの岩窟教会、カザンラックのトラキア人墓地、古代都市ネセバル、スレバルナ自然保護区、ピリン国立公園、リラ修道院、スヴェシュタリのトラキア人墓地で、今回はこうのちの古代都市ネセバルとリラの僧院の2カ所を観光する予定です。

●黄色の絨毯
 ブルガリアも農地は広大です。大きなヒマワリ畑が次々に現れて車内を興奮させます。ドライバーには見慣れた風景。いくつもの畑をやり過ごしたのを気の毒に思ったのか、道ばたにバスを止めてくれました。
 一面に広がる黄色の絨毯。一斉にカメラを向けるその前を仕事帰りの馬車がゆっくりと横切りました。

●牛も水浴び
 騒ぎがおさまった車窓に水浴びする牛の大群が現れました。ユーモラスな風景を眺めていたら18:30、人口7万人のヴェリコ・タルノボに。地ビール「ボリャルカ」の工場を横目にして坂道を上ったところにホテルがありました。フロントでドルを現地通貨に両替したら1レバが80円相当でした。

●夏のバカンス
 ホテルには大型バス3台が先着。50人前後という大きな団体ばかりです。ヨーロッパは夏のバカンスに入り、観光地はこれから徐々に客足が伸びるそうです。
 先ほど国境で会ったバスの団体もルーマニアからの越境観光組でした。部屋からはヤントラ川を挟んだ崖の上に密集する住宅が眺望できます。

●羊飼い風サラダ
 ホテルでの夕食に白チーズのサラダが出ました。これも1度は食べてみたいと思っていたものです。サラダは野菜の上に白いチーズがたっぷり乗ったショプスカ・サラダ。ブルガリアの一般的なサラダということですが、メニューには羊飼い風とありました。地ビールは4レバ。
 食後、希望者はツァレヴェッツの丘で行われる光のショーへ出かけました。

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