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◎6月15日(日)晴 (2日目) イスタンブール→ブカレスト泊 ●アザーン流れる 4:30、遠くにアザーンが聞こえます。イスラム教徒に日の出前の礼拝を告げるものですが、ルーマニアもブルガリアもキリスト教徒の国なので、今回の旅行で耳にする最初にして最後のアザーンになるでしょう。 きょうはイスタンブール市内を観光した後、ルーマニアの首都・ブカレストへ向かう予定になっています。観光は待ち時間を利用したおまけです。 ●旧市街観光 イスタンブールも3度目。どこへ連れて行ってくれるのか楽しみです。バスは海の要塞や陸の要塞を車窓に流しながらボスボラス海峡沿いの通りを走っています。懐かしく眺めていたら観光定番の旧市街で停車しました。ブルーモスク、競馬(馬車)場跡、アヤソフィア・モスクなどが勢揃いする広場をうろうろ。見慣れた風景ばかりですが収穫もありました。これまで機会がなかったブルーモスクの内部を見学できたこと、オベリスクがひときわは鮮やかだったこと、です。オベリスクの文字が晴天にくっきりと浮かんでいました。 ●少ない観光客 この後は 新市街のタクシム広場へ。イシュテクラル通りをしばらくぶらつきました。パン屋の装飾やウィンドウの中に並ぶロクムなどの菓子、芳香を放つケバブ、また真っ赤な路面電車などに目を移しながらの散策はなかなか楽しいものです。メイン通りだけに人通りは絶えませんが、その中に日本人、外国人を問わず観光客の姿はほとんど見かけません。いつもは大にぎわいのブルーモスク周辺も訪れる人は少なく、ガイドの言葉を実感として受け止めました。 ●ボスボラス海峡 イスタンブール 観光の締めくくりにドルマバフチェ宮殿の駐車場からボスボラス海峡を眺めました。地中海と黒海を結ぶ海峡は、アジアとヨーロッパをも繋げる重要な海上ルート。クルーズ船や貨物船が頻繁に行き交って活況を呈しています。対岸に目をやると、先ほど観光した旧市街の茶色が密集し、その中にモスクのドームやミナレット(尖塔)が誇らしげにそびえていました。それは紛れもなくイスラム教国の風景でした。 ●6本ミナレット ブルーモスク近くのレストランで昼食。 マッシュルームのクリームスープ、ダリヤンキョフテ(トルコ風ミートローフ)などの料理も美味しかったのですが、3階レストランのテラスから眺める風景が何よりのご馳走です。真っ青なボスボラス海峡を背にしたブルーモスクとアヤソフィア・モスクが手の届きそうなところに建っていました。地上からではブルーモスク自慢の6本ミナレットを全部とらえることが難しいのですが、目の前にあるモスクは確かに6本のミナレットを青空に突き立てていました。 ●初めてのアングル正式名、スルタン・アフメト・モスクのブルーモスクは17世紀初頭の建物。重なり合うような大小のドームもはっきり見て取れます。 アヤソフィアモスクもピンクの壁を光らせています。このアングルから両モスクを眺めるのは初めてのこと。「またイスタンブールか」との思いは、この瞬間に消し飛んでしまいました。 ●玄関で手荷物検査 アタチュルク国際航空へは25分で到着。「トルコの空港セキュリティは厳しいですよ」というガイド。米国での苦い思いが頭をよぎります。空港ビルの入り口に手荷物検査台があり、中に入る者はだれかれなく検査を受けることになります。 イラク戦争後のテロ対策ですが、特別に厳しいものではなく、出国審査も簡単でした。米国の腹立たしい検査に比べると、大人と子供くらいの差があります。 ●本気のサービス 17:15、ブカレスト行きトルコ航空TK1445便が離陸。3×3の機内は満席です。15分後、機内食が運ばれてきました。1時間30分ほどのフライトと聞いていたので軽食かと思っていたら、チキンと野菜をメインにした本格的な食事。しかもワインのサービスまで。トルコ航空は頑張っていました。 食事が終わるか終わらないうちに、眼下に整然とした田園風景が広がって、ブカレストのオトペニ空港に着陸。わずが50分のフライトでした。 ●日本円は冷遇簡単な入国手続きをすませてターンテーブルへ。スーツケースが流れてくるまでの間に、近くの「EXCHANGE OFFICE」でUSドルを現地の通貨レウ(複数形はレイ)に両替しました。日本円に換算すると、1万レイが40円ほどになります。 日本円からの両替もできますがレートはがたんと悪くなりまから、両替するならやはりUSドルが有利。コインは500、1000、 5000レイ、紙幣は10,000、50,000、100,000、500,000レイがあります。 ●スーツケース手運び 3階のターンテーブル周辺にはポーターがいないので、バスが待つ0階まで各自で手運びです。エレベーターを降りたところで、現地ガイドのマリウスさんが「ようこそ」と迎えてくれました。かなり日本語が話せるようで、これはありがたい。 19:10、スーツケースを横腹に収めたバスはホテルへ。サマータイム中なので、西日はまだかなり高いところにあります。ドライバーはアウエルさん。マリウスさんとともに国境を越える20日までのおつきあいです。 ●ルーマニア事情 バスは最新式のベンツ。添乗員から「ルーマニアもブルガリアもバスは悪いですよ」と聞かされ、それなりの心づもりをしていましたが見ると聞くとでは大違い。車内ではマリウスさんから大まかなルーマニア事情が説明されました。 @切手は郵便局でしか売っていない。日本までのハガキ代は1万5000レイ、至急便なら2万レイ。 Aバターは朝食時しか出ない。昼食や夕食時に注文すれば有料になる。 Bコーヒーはブラックが基本。ミルクはほとんど出されない。 Cドリンクはメイン料理と同時に出てくる。ルーマニア人はネコ舌が多いのでスープなどはややぬるめ。(ネコ舌はジョークかも) D治安は良いとはいえない。外出するときは必ず家族から「スリに気をつけて」との声がかかるほど。ニセ警察官もいる。 ●銀座通り 以上のような話を聞いているうちにバスは凱旋門を通過し、ロマーナ広場からブカレストの銀座通りであるマゲル通り、パルチェスク通りを大学広場へと向かっていました。 風が強くなり、小雨の通りに木の葉が舞っています。「大学広場は通りの起点になるところ。江戸の日本橋みたいなところです」。マリウスさんは日本通ぶりをちらりと披瀝しました。 ●首都の五つ星 19:50、インターコンチネンタル・ホテルに到着。手荷物をカウンターに預けて50mばかり離れたレストランへ。ルーマニア最初の食事はレヴァーと焼き肉、フライがセットになった前菜、それにスープ、子牛のステーキなどでした。地ビールはグラスで5万レウ(約200円)。 ホテルの部屋は12階。室内は広く、設備も整っていて、さすがは首都の五つ星ホテルでした。 ●ルーマニアという国 まず、明日から観光するルーマニアの国について――。 ヨーロッパの南東にある共和国でハンガリー、セルビア・モンテネグロ、ブルガリアと国境を接し、東側は黒海に面しています。 日本の本州とほぼ同じ面積の 237 平方kmに約 2250万人が住んでいます。首都は ブカレスト。現大統領はエミル・コンスタンティネスクです。 ●ラテン系民族 国民は東欧で唯一のラテン系民族のトラキア人が大半を占め、少数ながらハンガリー人、ドイツ人、また遊牧民・ジプシーのロマ族も住んでいます。 公用語はラテン系ロマンス語に属するルーマニア語。トランシルヴァニア地方ではマジャール語(ハンガリー語)が使われ、他に英語やフランス語、ドイツ語も使用。 ●大半が正教信者 宗教は国民の90%近くがルーマニア正教を信仰し、他にギリシャ正教、カソリック信者が6%ほどいます。東西ヨーロッパに囲まれた環境は独自の文化と伝統を育くみ、いまも中世の面影を随所に残している国です。 その代表的な遺産は、自分たちも訪れる予定のブゴビナ地方の修道院群やシギシォアラの歴史地区など。 ●世界遺産国内の世界遺産登録は現在のところ7つ。ドナウ・デルタ、要塞教会があるトランシルヴァニア村落、ホレズ修道院、ブゴビナ地方(モルドヴァ地方)の修道院群、シギシォアラの歴史地区、チエ山脈のダキア人要塞、マラムレシュ地方の木造教会。 そのうち、今回訪れるのは上記の2つだけです。 ●観光シーズン 地理的には山岳や高原、またドナウ・デルタ、黒海 に囲まれた国で、観光のベストシーズンは天気が良くて過ごしやすい5月と6月、9月と10月。 11月から3月中旬にかけては、国内のいたるところで雪が降り、そのころは西ヨーロッパからのスキー客が多くなります。7月と8月は暑くなりますが、日本のような湿気はありません。 ●侵略と抵抗 ここでルーマニアの歩みについて、さわりの部分を――。 中世のルーマニアには共通の言語や宗教、文化を持つトランシルバニア、モルダヴィア、ワラキアの3つの公国があり、オスマントルコやハプスブルグ、あるいはロシアなどの侵略にさらされ続けました。 何世紀にもわたる抵抗の中で、後世にドラキュラにさせられたブラド・ツェペシュ(串刺し公)などが現れました。ルーマニアの歴史は強国の侵略と、それへの抵抗の繰り返しだったのです。 ●王国から社会主義国へ 近代になると、紆余曲折を経て統一国家が誕生。1866年にはルーマニアを立憲君主国とする憲法が採用され、ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家のカロル1世が初代のルーマニア公になりました。 1877年にはオスマントルコとの戦争を経て独立、王国に。しかし、第2次大戦後はソ連軍が進駐し、王政に代わる人民共和国が誕生。1965年には社会主義共和国となり、あのニコラエ・チャウシェスクが共産党書記長を務るようになりました。 ●現在は共和国 1974年に大統領に就任したチャウシェスクは独裁体制を築き、中東の石油を精製して輸出することに国家経済の将来をかけました。 だが、第1次石油ショックの影響で、高度成長政策はもろくも挫折。経済危機に陥って独裁政権は1989年に倒れました。国は30年余りの社会主義体制から脱皮して共和制へと変革したのです。 |
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