稲作民俗の源流   Folk customs of rice growing
    葬送儀礼(土葬)
      小泉芳孝 

 山本地区では、土葬が昭和三十五年頃まで行われ、遅くは五十年代頃まで土葬が行われていた。一番遅い例としては、昭和五十二年四月にA、昭和四十八年にBが死去した時に行われた。                                                       

この時の土葬の準備が、火葬に変わってからも「辻蝋」(つじろう)や「草鞋」(わらじ)それに「前火」(たいまつ)などを作り準備していたが、平成九年四月十二日起の「寿宝寺 壇信徒 仏事ごと申し合わせ事項」により、簡素化されることになった。
  そこでこの貴重な珍しい行事を後生に記録として残しておくためここに記す。
                  

土葬の方法

 山本における葬式の準備は、近所の手伝いが中心となって行っており、村の親しい親戚や他村の親戚らも協力して行われている。 まず医者の死亡診断書をもらってから市町村役場で死亡届と死体埋火葬許可交付申請書を提出し埋火葬許可書(火葬の時は火葬場へ渡す)を受け取る。そして区長に提出(墓地管理責任者)する。
 そして戸主となるものが近所の代表に身内が死亡したことを連絡し、どの様な方法で葬式を行うのかを伝え、準備をして頂く近所の人達への「呼び使い」を依頼する。 親戚の人達らが集まると、自宅の奥座敷で死者を湯灌や死化粧をして死装束に着替えさせて北枕に寝かせ枕飯などの枕飾りを調整したあと住職に伝えて「枕念仏」をしてもらう。また自宅の鬼門である北東角に「三日干し」と言って、生前着ていた肌着を十字にした長い竹の先端に取り付けて北向きに三日間掲げる。また門口には「忌中」と書いた忌中札を貼り、神棚には白紙を貼る。 この頃になると近所の親しい人達が「悔やみに」いち早く駆けつけ悔やみの言葉を述べに行く。 お悔やみの言葉は、深い哀悼の念があればよい。
 「このたびは、まことにお気の毒なことで…」
 「このたびは、思いがけないことで…」
 「ご愁傷さまでございます…」 などの言葉を述べ
 「…何か御用がありましたら、ご遠慮なく…」 と用事を伺っておく。
 土葬の葬式には、寿宝寺の住職に連絡するとともに、お寺から「八祖大師・・」と書かれた箱を受け取り、中に入っている「弘法大師像」などの八祖大師八巻の「掛け軸」を自宅に掛ける。また細い青竹を三本と、太い青竹を二本切ってくる。 細い竹は「」というロウソク立てや「顔隠し」に使い、少し太い竹は「前火」や「団子の竹串」などにそれぞれ使う。 
 山本村の土葬は墓地が狭いためほとんど木の坐棺で行われており、この坐棺の下にはムシロを二つ折りにして敷く。 通夜(「夜伽」よとぎ)は夜七時頃からで、告別式は午後三時頃から行われていた。
 お通夜には、死者が出た近所の戸主や親戚らが式に列席した後、親戚らと共に導師を決め念仏をとなえることになっている。 お通夜は元来死の穢れを世間から隔離し、近親者が死者の仲間入りをして暮らす喪家生活の名残りと言われている。 この時に仏前にあげるものは以下の内容です。

【仏前勤行次第】 (昭和五十二年七月 由峰 謹書)

懺悔の文 三機帰 三竟 十善戒 発菩提心真言 三摩耶戒真言 開経げ 大髄求真言 舎利礼文 十三仏真言(不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩。弥勒菩薩・観世音菩薩・阿弥陀如来・阿しゅく如来・大日如来・虚空増菩薩) 光明真言 弘法大師御和讚 光明真言 高祖御宝号 廻向文 西国三十三所御詠歌 (鐘をチン、チンと鳴らしながら唱える) 家によっては大師講の人達により鐘とリンで御詠歌があげられる。この時は、大師講の人達が導師を務める。そして、念仏後に明日のお葬式の打ち合わせをしてそれぞれの役割を決める。

 葬式当日の準備

 お葬式当日の墓の穴掘りは、近所の手伝い(第二次世界大戦中からは班に変わる)の数人が酒を持って堀りに行くが、掘る場所を事前に家族が行ってその場所を分かりやすいように標示しておかなくてはならない。また墓を堀に行って頂いた人達ように風呂を沸かし後日にお礼をしておかねばならない。 土葬でのお葬式の準備は近所の人達らで全部準備をしていたため、現在とは違い早朝七時頃に集まり始められる。準備は、竹で作った鶴の形をした「ロウソク立て」や、ワラで編んで作った「草鞋」、それに竹と大根またはジャガイモとトウガラシで作った「辻蝋」、紙と竹で作った「紙花」、竹と藁それ米粉などで作った「団子」、竹と白紙で作った「顔隠し」、剥ぎと白紙で作った「檜傘」など他村ではすでに行っていない大変珍しいものが作られる。これら準備のほとんどは火葬となった平成九年四月十一日まで延々と続けられて来た。

 @「」のローソク立ては、直系三センチ位の青竹を用意し、真ん中に二枝と節のついた竹を二十五センチ位に切った後、竹の二枝を鶴  の足にするべく下に曲げ銀紙を巻いた大きい大根に突き刺して立てる。そして 尾っぽとなる方を下に斜めに切り、またクチバシとなる  ほうを上に斜めに切り、先を長く尖らせるため少し火で焼いて曲げる。このクチバシの先にローソクを立てるようになっている。
A「草鞋」は、三本の藁を互い違いに編んで行き真ん中を十五度の角度に折る、そしてその折った所に別の一本の藁を通したあと、三セ  ンチ位に切った半紙を糊で全面に巻き付ける。この草鞋を  十二足作り約四十センチ位の青竹の回りに上半分だけ巻きつけて周囲  を藁で縛る。  B「前火」は、藁の根元を高さ三十センチ直径四.五センチ位に束ねて上・中・下の三箇所を結びつけ る。その後周囲に  太い青竹を一センチ位に割って巻いて白糸で二箇所結び、その上をさらし布で斜 めに巻き直径約五センチの太さのものを一本作る。
C「辻ろう」は葬列の時に各辻に立てるもので、太い青竹を割って長さ六十センチ幅一センチにし上五センチを徐々に尖らせた後、輪切り  にした大根またはジャガイモを突き刺して、さらに上の尖った割り竹の先端に赤いトウガラシをくっつける。葬式当日は、この先端に実   際のロウソクを取り付け辻に明かりをつける。
D「団子」は死者の祭壇に忌明けまでお供えするもので、途中でひび割れして割れたりカビが生えたりするため途中で家族が取り替えね  ばならない。作り方は、まず十五センチ位の竹串を七本作り、さらに直系五センチ位に束ねた藁を上・中・下三箇所を白糸で結び十三  センチ位の長さに切り揃えた後、中央に竹串を通し準備しておく。団子は米粉に小麦粉を少し入れて練り上げ直系一センチ五ミリ位に  丸めて先程の竹串に七個差したのを七本作る。組み立ては、五角径に切った台の中央にきりで穴を明け、そこに先程の藁束を中央   に差した竹串を入れて立て、この周囲に竹串に刺した団子七本を立てた竹串の台に、きりで穴を空けて竹串を入れ上中下を白糸でゆ  るく縛る。最後に団子を奇麗に整え上部の竹串を切り揃えた後、その上に笠形にした直径八センチ位の団子を乗せて完成する。 
E死者のお膳の土器上に置く「顔隠し」は、約十センチ四方の半紙を三角に折りその真ん中に小さな四角の穴を菱形状に空けたのを用 意する、そして細い青竹の表面を残して削った直系七センチ位の輪っぱを作りその端を白糸で巻いて結んだ後、先程の半紙を輪っぱの 内側から差し入れ竹の外側部分だけ糊づけする。また上記のほか直系一センチの団子四個(最近は三個)も作っておかねばならない。
F「檜傘」は、木で作った直系三十センチの傘骨に、梵字を書いた紙を張り付けたのを一つ作る。
G「四本幡」は、人の形をした白紙に住職が梵字でかいたものを「四本幡」の板にそれぞれ一枚ずつ合 わせて四枚ぶら下げる。
H棺の上に立て掛ける「天蓋」に、青竹の棒(三メートル位)を取り付ける。
I「紙花」(「四華花」しかばな)は、昔は白紙その後は銀紙で作っていた。まず三十センチ位の竹の上半分に紙で作った花を周囲に取り  付けて下方を束ねる。そして大根またはジャガイモ等を台にして竹を突き刺したものを四本作る。(上記FGHIは火葬になってから作  られなくなった)
  「紙花」は棺の両側に置く四本の造花で、釈迦が沙羅双樹の林で涅槃に入ったとき悲しみで四辺の木が枯れて全て白くなった故事に よるもので、最初白い紙で作っていたのがその後銀紙になった。

  霊供(おぜん)には、御飯・おかず・団子四個・顔隠しを、それぞれの土器に盛りお茶も供える。また竹串に刺した「団子」とローソク立ての「鶴」を飾り、さらに普通の線香か巻線香を立てる。 (この上記の行事@〜Eは「寿宝寺 壇信徒 仏事ごと申し合わせ事項」により、平成九年四月十二日から簡素化された。) 土葬の葬式 早朝から葬式の準備に来ていた近所の手伝い(第二次世界大戦中からは班に変わる)や親戚の人達が死者と一緒に最後の食事を取った後、しばらく休憩して午後三時頃から行われる葬式の配置につく。

《以下は山本の長老、小泉源一氏と保田定男氏それに林憲三氏 永島与四幸氏からの聞き書きによるものです。》

 まず僧侶が到着すると、近所の手伝いの長老が「一番鐘」を打つ。この鐘は「‥…‥…・」と四十回程たたき、最後に一回だけ強く打って知らせる。山本の僧侶は住職一人だけで執り行われ、読経が始まってしばらくすると参列者の焼香が始まり、親族は葬式に来て頂いた人達にお礼の挨拶をし、最後に親戚や班の手伝いの人達が焼香する。焼香がほぼ終わりになったころ、「二番鐘」が「‥…‥…・・」と打たれる。 棺の前で家族らが死者の口に樒や榊の葉っぱで「水ぶけ」(末期の水)をして最後のお別れをする。このあと棺の蓋をして石で打ち付けられたあと棺に「棺巻」(がんまき)を被せて輿の上に乗せられ出棺の準備に取り掛かる。 出棺に先立ち、ムシロを玄関に敷いておき、生前に使っていた茶碗が玄関前で割られると、棺が玄関から出る。この直後に同じ玄関前で、藁束に火がつけられ直ぐに玄関前のムシロをかぶせて火が消される。 葬列の準備をしている間に、班の手伝いの次の長老が、早朝に作った「辻ろう」 六・七本を持って行列より先に出発する。「辻ろう」の立てる場所は、それぞれの家によって違い、瀬戸川の角(川井馨宅の北方)・瀬戸川の墓道の角(小泉茂宅北方)・寿宝寺の「鶴沢の池」南東角(お地蔵さん横)・荒馬の飯岡との交差・坂の登り口・墓の入り口(迎え地蔵の所)・六地蔵前の、それぞれ一本ずつの合わせて六・七本と思われる。 これに続いて、準備が出来次第「甘屋」 (あまや「荷持」)が出発する。この甘屋は、先程のムシロと霊供(おぜん)を入れたシンドを前後にぶら下げた竿を肩に担いでお墓まで運ぶ人で、先に出発した「辻ろう」 を追い越して行かねばならない。 呼び出しにより葬列順序がととのい出棺準備が終わると、お手伝いの長老が「三番鐘」 を 「‥………‥・・・」と打つと葬列が出発する。土葬は「野辺送り」といい、必ず葬式道を通ることになっている。

 土葬の葬列については、寿宝寺住職の中僧正 山田鳳信さんが昭和三十五年四月吉日に「八祖大師・・」 の木箱の蓋裏に書かれていたので記す。 葬列順序 みちがね たいまつ

◎ 導鐘 施主家より → 前火 竹を割り布をまき 造花。主花。→   墓所迄 油そそぎしたもの 1\□  /  3\□ / し か 四本幡  \ / \/ 交互に → 婦人肉親 →紙花。婦人→   /\ /\ 持つ 2/□ \   4/□ \    しきみ  てんがい 役僧→導師1大傘 → 樒 一対 → 先燈籠二本 → 棺 天蓋 2曲録 お ぜん   → 位牌 → 霊供 → 近親 → 会葬者一同
   【 昭和三十五年四月吉日 寿宝寺山主 中僧正 鳳信   】

  葬列時の家族の装束については、「カズキ」という白衣を着る習わしになっている。 そして梵字が書かれた三角形に折った紙を、顔の正面頭上や腰に「こより」で取り付けられる。

葬列は、「導鐘」を先頭にして早朝に作った「前火」(たいまつ)を男の子(孫)が持ち、「造花」「主花」(生花)と続き、次に「四本幡」となる。 「四本幡」は、人の格好をした紙四枚に住職が梵字を書き、これを板にぶら下げたのを四枚作る。これを板の上から出た棒を二人が両側から持ち、後方にも同様に一列続く。さらに「婦人」 「紙花」 と続く。 「紙花」 は、白紙その後は金銀紙を三十センチ位の竹の上半分に紙で作った花を周囲に取り付けて下を束ねたもので、子供の長女から順に女性のみ四人が持つ。
これに続いて「役僧」 「導師」 が続き(役僧はよそのお坊さんのことで、山本では住職の「導師」のみが行っている)、導師には近所の手伝いの「大傘」と「曲録」持ちが従う。さらに「樒」一対を手伝い二人が、「先燈籠」二本を親戚二人が持つ。この「先燈籠二本」は、三十センチ位の折り畳みの出来るもので、一連の葬式の道具と共にお寺におかれている。 次が「棺」と「天蓋」で、棺の「輿担き」は男の子供が担ぎ、後方を血の濃い人が担ぐ。「天蓋」は、羽織り袴の娘婿が棺の横から棺上にさしかける。
  「位牌」は後継ぎの女(息子の嫁)が持ち、この位牌持ちと輿担きは草鞋をはいて行き、帰りに寿宝寺の「鶴沢の池」東南角に捨てて、そこからはだしで帰ってくる。 「霊供」 に続いて「近親」 「会葬者一同」 ら五十から六十人が葬列に参加する。 行列に参加した人の中で妊娠している人は、寿宝寺の鶴沢の池東南角の所まで行き、そこから先へ行ってはならない。
 山本の墓に着くと、迎え地蔵の前に前火と草鞋それに檜笠を置き、そして親族らで担がれた棺桶を六躰地蔵前にある丸い蓮華石の台上で三回または三回半回転(輿の到着した向きにより)した後その石の上に降ろす。  このあと棺を置いた手前にある四角の石の前にお供え等をし、僧侶が読経を上げ、引導(死者の天迷開悟説き済度する儀式)を死者に授けた後、墓まで移動し近所の手伝いによつて縄でゆっくりと墓穴に降ろされ親族や家族が土を三回ずつ上からかけ棺を埋める。その上に位牌を立て供物を供えて周囲に花などを飾る。山本の墓は他村と違い墓標や周囲の囲垣はなかった。 会葬者が帰るときは、向かえ地蔵の近くにムシロを敷き、そこに長男と輿の後方を担いだ二人が座って手をつき頭をずっと下げておかねばならない。そして位牌持ちと輿担ぎがはいていた人の草鞋は、寿宝寺の鶴沢の池(古来から鶴が飛来することから百八十年前頃よりこの名がつく)南東の角に脱ぎ捨ててはだしで帰ってくる。
  墓から帰宅した人達は、家に入るとき「清めの塩」をまいてもらったり、塩の上を跨いだりして体を清め悪霊を払った後でないと玄関に入ってはならない。 葬式の終わった明くる日には、死者が使っていた枕を木津川へ流しに行かねばならない。 山本の墓地は、他村の様にお寺の近く等に参り墓の墓地がある「両墓制」でなく、埋め墓と参り墓が一緒になった「単墓制」になっている。

 「初七日」(しょなぬか)
 山本の初七日は、葬式の翌日午後七時頃から行われている。これは準備を一週間後に再び行うのが準備などで大変なため「一七日」 「初逮夜」を同時に行うもので会席料理でふるまわれる。

 「二七日」(ふたなぬか)から「四七日」(よなぬか) 家族だけで夜に念仏を上げる。この間 死者があの世へ行くのに迷われないためと考えられている。 また四七日頃まに親戚や班の手伝いの家へ香典返しを持って行った時に「五七日」の呼び使いをしておく。一般に奇数日は親戚を中心に行われ、偶数日は家族を中心に行われている。

 「五七日」(いつなぬか)「七七日」(しちしちにち「四十九日」) 法事は早めにしてもよいので「忌み明け」を五七日(三十五日)にすることが多い。(三ケ月またがらずに「三七日」にする場合もある) 「忌み明け」の日には、近所の手伝いや親戚の人達とともに墓参りをしたあと、家に帰り「傘の餅」を全員で食べる。この「傘の餅」 は、一升の餅をついて四十九個の子餅をを作りその上に大きな傘の餅をかぶせたもので、小餅はそのまま焼き、傘の餅は箕の上にまな板乗せて包丁で切り焼いて醤油餅にして食べる。 その後全員で食事をして故人をしのぶ。この日は今までの祭壇を取り壊して、白木の野位牌から漆塗りの本位牌に変え仏壇に入れる。またこの日の帰りには、お供え物と何か適当な品を買って置いて持って帰ってもらう。 (平成九年四月十二日の「仏事ごと申し合わせ事項」で廃止された) またこの日には、親しい親戚の人達へ死者が日常使っていた品物の形見分けをする。

初盆(「新棚」あらのたな)
  初盆は、付き合いのある家からサイダーやスイカそれに乾物や菓子などのお備えがあった。(平成九年四月十二日の「仏事ごと申し合わせ事項」で廃止された)。 そして「アラノタナ」と言う盆棚を作りその屋形の中に白木の位牌を入れる。またローカには対の飾り燈籠をつるし、座敷の天井には一対の岐阜提燈(盆提燈)をつるす。八月十四日夜七時頃になると近所の人達のお参りがある。この時サイダーなどの飲み物を出すことになっている。 毎年、盆の前日にはどこの家も先祖を迎えるための「おしょらいさん」 を砂で作り、そこに五本の線香立てを作って線香を上げ先祖の霊を呼ぶ行事があり現在でも続けられている。しかし、かつて寿宝寺の「鶴沢の池」のほとりで行われていた灯籠流しは、昭和三十年代頃まで行われていた。
一周忌 三・ 七・十三・十七・二十三・二十五・二十七・三十三・三十七・四十三・四十七・ 五十回忌(これからは十年ごと) 一周忌からは、濃い親戚だけで行われる。 五十回忌になると、死者は完全に成仏し祖霊になると言われている。 また民族学では、普通一般に五十回忌を過ぎると、神になると考えられている。それは北野天満宮の菅原道真や平安神宮の桓武天皇なども、神となっていることから明らかである。
納骨 納骨は、一回忌が終わった後に寿宝寺の大本山である高野山の安養院(かつては郡山の矢田寺・高野山の普賢院)に、死者の「髪の毛」を持って家族で行き納骨する。火葬になってからは「喉仏を」持って行き寺位牌を作ってもらい永年供養をしてもらう。

蓮華寺・西蓮寺の変遷
 
 かつて墓道は、現在より一本東の道から北上し、現在の山本の墓の東南角に出て、南端を西へ進むと中間辺りに六地蔵があり、その前に丸い石と四角い石があった。また東南角の所をさらに北へ上がった所に病死者の焼き場があり、さらに北へいった所に「蓮華寺」があったといわれている。 真言宗蓮華寺(蓮花寺)は、明治八年二月八日の古文書『飯岡蓮華寺廃寺記録』によると、境内四百六坪で飯岡にあったが明治八年二月八日に廃寺となり寿宝寺に合併された。この寺は、寿宝寺の住職 嶋広運が世話をしており、山本村十五軒の小泉家(山本村戸長 小泉源兵衛、山本村中惣代 小泉源三郎 小泉忠次郎 仲川儀三郎ら)と飯岡村五軒の出島家ら檀家三十軒の寺であった。
 ここには鎌倉時代に京都の仏師、尾の道浄信師作の本尊 聖徳太子木立像(十六歳の時の像 木造厨子入)と弘法大師木造 不動明王木造 観世音木造のほか、大般若経箱入り六百巻があり明治八年二月八日に仏像什物などが寿宝寺に預けられた。

  寛延四年十月十八日の古文書『山本村西蓮寺水難に付寺地移転の裏書と絵図』によると仁和寺 末 松寿院西蓮寺とあり、水難で移転した場所は東地隣 伊兵衛 同断 太兵衛 西地隣 与八 南地隣 常七 北地隣 安兵衛 同断 弥次郎 乍南地隣 庄屋 長十郎 年寄 利右衛門と記されている。
 その後 西蓮寺は、真言宗となり境内百六十二坪で山本村の八反坪七十七番地付近にあり、相楽郡相楽村地蔵院の住職 広沢秀慧が当時世話をしており明治七年二月十四日廃寺となつた。
 この寺は、山本村戸長 小泉源兵衛 木邨惣右衛門ら檀家の寺であった。ここには本尊不動明王・地蔵菩薩・弘法大師・興教大師(いずれも木造厨子入) 雨宝童子・水天(掛物一幅)の仏具什物などは地蔵院へ預けられた。

山本小学校と西蓮寺

 その後明治五年八月学制領布により明治六年五月二十七日現在の三山木小学校の前身として山本小学校が産声をあげた。この山本小学校は、西蓮寺跡に建てられ通学区域は高木 山本 山崎 南山 出垣内 江津 宮の口 飯岡 であった。年齢としては八歳または九歳に始まり十三・四歳にて終わった。入学する時期は、毎年正月と七月の二回であり、当時の教科書は五十音階 手仮名 小学校 弟心得 実語教郡中制法を習った。 算術は、算盤を使用するまでの準備として八算 九々の発声法を教え、夜学として山本の木村家塾にて算術を習得した人から加減乗除の練習を行い、女子は近村の裁縫及び作法等に心得のある人に就いて教えを受けた。 毎月の一日と十五日は、休日とし、午前八時始業、午後三時修業の規定があったまた盆・正月や村の臨時休日には休みとした。 明治二十年八月宮津小学校と合し教育令の改正に伴い三山木小学校と改称し今日に至っている。
     参考文献 『田辺町近世近代資料集』 『田辺町郷土史 社寺編』


京の都の昔日 京都遍歴/吉村貞司

死者を偲んで小さな石仏を地下に埋める習慣は、鎌倉時代に入ってから浄土信仰の盛んになるのにしたがって民衆の間に浸透していったと思われる。
死者といえば、火葬にしないまでも、土中に埋めて土葬するのが当たり前だと我々は思い込んでいるが、死者を土中に葬る習慣は少なくとも民衆の間には近世まであまりなかった。ではどうしたかといえば、多くは町外れの野辺にただ打ち捨てたり、あるいは、河原や山裾の谷に骸(むくろ)を捨てただけである。それを鳥が啄ばんでいけば鳥葬である。
京にはそのような死者を捨てた場所が数知れずある。あの華やかな京の王朝文化を沈黙した死者の群れが見守っていたのである。生者の数はいつの時代も限られている、しかし、死者は時々刻々増えつづけてとどまるところをしらない。京には実に寺が多いという、それだけ死者が多いということである。
都には数多くの名高い行事がある。しかし、その大部分は夏のお盆の頃に集まっている。大文字送り火は死者の葬送儀礼から、六斎念仏や燈篭流しはなどはみな死者に関わるものであった。
日本人は仏教が入ってからも、長く死者については古代からの鳥葬、水葬などで済ましてきた。仏教も一般民衆の死後に付いてはそれほど関心を示さなかった。お葬式といえば仏式となったのはおそらく江戸後期のことである。
日本の民衆は生と死を、それほどはっきり区別していなかった。往ったり来たりできるもう一つの現実の世、そこに祖先の霊たちが生きている世界で、多くは山に、あるいは、海の彼方に、そのもう一つの他界をみていた。人々が死というものに直面するのは、古代からの氏族制度が崩壊し、同族の共同体に属しているという実感が失われてからであろう。
平安時代の新仏教がいっせいに民衆の間に踏み込んで行ったのはその為である。一説に由れば死者を仏教で葬送する儀式を初めて日本で用いたのは弘法大師空海だと言われている。
その歴史的事実はともあれ、その頃真言密教の影響のもとに、日本人の他界思想が次第に仏教の浄土思想へとうつり、それとともに中国での六道思想、人間が六つの世界と輪回転生するという考え方をうけとり、やがてその中で地獄が大きくクローズアップされるようになった。
それまで死者の単なる穢れの場であったのが底知れぬ苦悩と贖罪の場になっていった。


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『竹取物語』研究所(竹取の翁・かぐや姫)小泉芳孝 
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