麻生城


場所      茨城県行方郡麻生町麻生

城主      麻生家幹

立地      丘城

創築年代   鎌倉時代初期

別名を羽黒城ともいう。麻生陣屋跡である麻生小学校から西へ400m、水田に突き出した半島状台地上に麻生城はある。現在では城の周囲は水田が広がっているが、往時は霞ヶ浦に突き出した岬の先端であった。麻生城のすぐ東側に城下川が流れ天然の水堀とし、なかなかの要害を誇っている。

現在は羽黒山公園として整備されている。

公園になっているので、車で登って行ける。駐車場奥にこんなおちゃめなトイレが出迎えてくれる。遺構はこのトイレのすぐ左側に残っている。

判りづらくて申し訳ないが、土塁である。高さは高いところで3mもあろうか。

こちらは竪堀。麓からの連絡路も兼ねているようだが、これだけ深く、しかも一直線に下まで伸びている竪堀はこの地域では大変珍しい。麻生城の見どころの一つだ。

複雑に入り組んだ空堀。竪堀、横堀、二重堀が複雑に穿たれていて、どこが曲輪なのかもよく判らない。この麻生城には概念図等が見当たらなく縄張り等は不明なので、ここの堀群もどういう機能をしていたのか判らない。ただ、規模も大きく保存状態も良好なので見るだけでも価値あり。

羽黒山公園は周囲を木々が生い茂っていて、眺望は良くないのだが、木々の隙間から覗ける霞ヶ浦を撮影してみた。一部でもこの木々を薙ぎ払ってくれれば、素晴らしい眺望が楽しめるのだが・・・。

城址の中で最も標高が高い場所がこの平らな芝生広場である。おそらくはここが主郭だったのであろう。ここには土塁も堀もなく、城跡の風情は乏しい。

城主の麻生氏は常陸大掾氏の流れを汲む行方四郎忠幹が始祖で、忠幹の子景幹が元暦元年(1184)源義経に従って屋島の戦いで戦死し、その所領は4人の子に譲与された。長子為幹が行方(のちに小高に移る)、二子高幹が島崎、三子家幹が麻生、四子幹政が玉造に城を築き、それぞれの地名を名字にして武勇を誇っていた。その子孫は「行方四頭」と呼ばれ中世を通じて行方群の中心勢力となったが、戦国時代になると、常陸大掾家の統制力が弱くなりこの四家もやがて自家の勢力を伸ばすためにお互いに争うようになってきた。麻生氏の17代常安は東に領地を接する同族島崎義幹と敵対し、麻生・吉田・永山で激しい戦闘を繰り広げたが、天正12年(1584)遂に麻生城は落城し麻生氏も滅んだ。その後島崎義幹がこの麻生城を支配したが、7年後に佐竹氏に謀殺された。その後、佐竹氏の家臣、下川辺氏が慶長7年(1602)の佐竹氏の出羽秋田への移封まで居城とした。同9年、摂津高槻から新庄直頼が三万三百石でこの麻生に入封し、麻生城の東400mの平地に麻生陣屋を築いたため、麻生城は廃城となった。


Ads by TOK2